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『シザーハンズ』世界に対峙するGOTH=アウトサイダーはティム・バートンそのものなのだ。町山智浩単行本未収録傑作選90年代8

文:町山智浩
初出:『映画秘宝』2006年5月号

 雪の降る夜のことです。お婆ちゃんが、孫娘を寝かしつけようとしていました。
「おばあちゃん、雪はどうして降るの? 雪はどこから来るの?」
「話せば長くなるから、今日はもうお休み」
「知りたいの、お願い」
「そうかい、じゃあ、ハサミのことから話さなきゃね」
 ティム・バートン監督の『シザーハンズ』(90年)というおとぎ話は、こうして始まる。
 バートンは『シザーハンズ』公開時のインタビューで何度も「エドワードというのはあなた自身ですね?」と聞かれて「やめてくれ。そんな風に考えたくない」と答えを拒否していたが、10年以上経った今ではそれを認め、DVDの音声解説では「ここに登場するキャラクターたちはすべて実在する。現実なんだ」とまで言っている。
 アンデルセンは「私の自伝は私の童話に対する注釈だ」と言ったが、『シザーハンズ』をバートンの人生の「現実」だと考えると、これを注釈として彼の全作品を読み解くことができる。それはど『シザーハンズ』には彼の痛みと憧れが詰め込まれているのだ。

●おとぎ話のない町

 ティム・バートンは1956年、ハリウッドの北にある住宅地バーバンクに生まれた。バーバンクは第二次大戦後に開発された中産階級の町で、碁盤の目のような道路に同じような大きさの建売住宅が地平線の彼方までズラーっと並んでいる。どこまでも平坦で平均的で均質で、極端な貧乏人もいなければ、大金持ちもいない。メキシコ系とかイタリア系とか、民族的な伝統を引き継ぐ文化もない。明るいだけで陰影がまったくない。何もかもが新しくて、古い歴史のある建築物や教会はない。あるのはマクドナルド、デニーズ、ショッピングモール。バーバンクは戦後急増した「核家族」の住宅として開発された。それまで子どもたちにおとぎ話を聞かせてくれたおじいちゃんやおばあちゃんはもう一緒に住んでいない。戦後の中産階級の子どもたちに代わりに与えられた物語は2つ。1つは絵本。もう1つはテレビだ。
「僕はドクター・スースの絵本が好きだった」バートンは言う。ドクター・スースが描いた絵本は、英語のナンセンスな言葉遊びが中心なので、あまり日本語訳がないが、アメリカでは字を読み始めた子どもに熱狂的に愛読され続けている。
「ドクター・スースはきっと数え切れない子どもたちを救ったんだ」
 バートン少年の好きなテレビ番組は子ども向けのアニメ番組などではなく、夕方に放送される昔のホラー映画と怪獣映画だった。彼が感情移入したのは怪物を退治するヒーローではなくて怪物の側だ。「僕はゴジラの着ぐるみ俳優になりたかった。あんな風に大暴れしたかったんだ。大人しくて絶対に気持ちを表に出さない僕にとって怪獣映画は自分を発散させる1つの手段だった」
 バートンは落書きばかりしている子どもだったが、それも怪獣映画に影響された。たとえば宇宙人が攻めてきて地球を破壊する絵物語。1つの絵の中にどんどん光線や爆発を描き加えていって最後はぐちゃぐちゃになる。しかし、彼にとって怪獣は暴れるだけの存在ではなかった。
「怪物は周りから誤解されているだけで、本当は周りの人たちよりもずっと暖かい心を持っていると信じていた」
 カリフォルニアの青空の下、他の少年たちが野球やプールで遊んでいた頃、バートンは1人真っ暗な部屋で白黒のホラー映画を観ていた。
「おとぎ話とは、子どもがこれから経験するだろう人生を、シンボリックに誇張した物語にして教えてあげるものだと思う。アメリカには、特に郊外は伝統的な文化や宗教から切り離されている。だからモンスター映画は僕にとって民話の代わりの役割があったんだ」

●怪獣映画は僕の言葉

 バートンの父は元マイナー・リーグの選手で、役人として地元の公園の野球場の管理を仕事にしていたが、バートンは野球には関心がなかった。「僕の両親はいい人だと思うよ。悪人じゃない。だけど」バートンは映画監督になってから自分の両親について何も、出身地すら知らなかったことに気づきショックを受けた。それほど、彼と両親の間には心の交流がなかった。
「僕は他のみんなが興味を持つことには全然興味を持てなかった。僕はすごく内向的で、いつも悲しい気分だった」バートンは言う。「アメリカでは、学校に入学した日からレッテル貼りが始まる。この子は勉強ができ、この子はデキが悪く、この子はスポーツが得意で、この子は運動神経が鈍くて、という具合に。僕は『変わり者』に分類された」
 明るさと健康とスポーツをすべての人に求めるカリフォルニアはバートンにとっては逆に病的に思えた。
「僕はパンクとかヘヴィメタルとかゴシックが好きだった。そんな、ドラマチックで暗くて陰鬱なものこそ、逆に健康的だと感じていたんだ」
 学校に居場所のないバートン少年にとって怪獣映画は「救いだった。僕は怪獣映画と出会って、それを自分で作るようになった」
 彼は8mmでコマ撮りの怪獣映画を撮り始めた。そして「僕は自分が他人とコミュニケーションができない人間だと思っていた」という彼は、言葉で自分を表現する能力に限界を感じ、学校の授業で提出するレポートを書く代わりになんと8mm映画を撮って提出していた! 「言葉を操ることに自信のない彼は、映画監督になってからも脚本は自分で書かずにプロに依頼している」
 筆者は92年に『バットマン リターンズ』の宣伝で来日したバートンにインタビューしたが、決して無口ではなかった。むしろ逆に彼はうわごとのようにしゃべり続けた。たとえば好きな映画について尋ねたときはだいたいこんな感じだった。
「だ、『大アマゾンの半魚人』が、す、好きなんだけけけけけけけ。アマゾンの半魚人。かかか、彼は寂しかったんだ。寂しいんだよ。自分のようなヤツは1人しかいないから」

 バートンは、どもりながら、ツバを飛ばし、甲高い声で、激しい身振り手振りと「けけけけけけ」という笑いをまじえて誰かが止めるまで延々と『大アマゾンの半魚人』について熱に浮かされたように語り続けた。しゃべればしゃべるほど逆に相手との距離が離れ、自分の内側にこもっていく。そんな彼にとって言葉よりもうまく気持ちを伝えられるものが映画だったのだ。

●ヴィンセント

 学校の成績は悪かったバートンだったが、高校を出ると絵で奨学金を受けて、ディズニーが設立したアート・スクール「カル・アート」に進学し、卒業後はディズニーにアニメーターとして採用された。バートンは『コルドロン』(82年)から登場するクリーチャーなどをデザインする部門に配属された。そこで彼は会社の資金で白黒5分間の短編人形アニメ『ヴィンセント』を作らせてもらえた。24歳にして商業映画の監督デビューだ。
 主人公は、自分が怪奇映画の俳優ヴィンセント・プライスだと思い込んだ7歳の少年ヴィンセント。やせっぽちで青白い顔をして目玉だけがギョロギョロしてモジャモジャ頭で真っ黒な服を着たヴィンセントはどこからどう見てもティム・バートン自身だ。ヴィンセント・プライスはカウボーイや野球選手をヒーローにできなかったバートン少年にとって怪獣以外に自己同一化できた唯一の人間だった。
「特にエドガー・アラン・ポー原作の映画のヴィンセントに僕は共感した」
 ヴィンセント・プライスは最初、画家を目指したが、俳優に転じ、『肉の蝋人形』(53年)から主に怪奇映画で活躍した。プライスの演じる役はいつも孤独で誰からも愛されず、昼なお暗い古城や大邸宅に引きこもっていた。『アッシャー家の惨劇』(60年)のアッシャー家の末裔ロデリックは自分の妹に近親相姦的愛情を抱き、妹や屋敷もろとも滅んでいく。『恐怖の振子』(61年)の拷問吏メディナは密通した妻を生きたまま埋葬して発狂する。『地球最後の男』(64年)にいたっては、プライス以外すべての人類が吸血鬼になってしまうのだ!
 バートンのヴィンセントは母親から「いい天気なんだからお外で遊びなさい!」と言われても1人で暗い部屋に閉じこもって、母親を蝋人形にしたり、犬をフランケンシュタインみたいに改造する夢想に耽る。最後は暗闇に1人取り残されたヴィンセントと、ヴィンセント・プライス自身が朗読するE・A・ポーの詩「大鴉」で終わる。
 このナレーションのためにバートンはあこがれのヴィンセント・プライスに会いに行き、2人の親交はプライスが死ぬまで続いた。自分の暗黒面をまるで理解できなかった両親よりも、ヴィンセント・プライスはバートンにとって父親のような存在になった。
 その後、短編『フランケンウィニー』で犬を使って『フランケンシュタイン』の物語を再現したバートンだったが、そのハッピーエンドがよかったのか、ワーナー・ブラザーズから『ピーウィーの大冒険』(88年)の監督を依頼される。そして、批評家の酷評を受けながらも『ビートルジュース』(88年)『バットマン』(89年)とメガヒットを連発し、商業的に最も稼ぐ監督となったバートンは、やっと自分の企画を映画化するチャンスを与えられた。自分を100パーセント表現できる物語を。それが『シザーハンズ』だ。

●「眠り男」の城

 その日、エイボン化粧品のセールスウーマン、ペグ(ダイアン・ウィースト)はどこの家を訪問しても疎んじられ、口紅ひとつ売れてなかった。落ち込んだペグの目に入ったのは、町外れの丘にそびえる朽ちかけた洋館だった。門を開けて庭に入ったペグは驚いた。生垣はドラゴンや、トナカイや、さまざまな動物の形に見事に刈り込まれていた。誰がこんなものを? 生垣の中にはなぜか大きな「手」もあった。
 洋館の中にははるかに高い天井まで長い長い階段が伸びている。この階段は『ヴィンセント』にも出てくる。この部屋はすべてが巨大で遠近感が狂っているように見える。これはいわゆる「表現主義」的デザインである。
 表現主義(Expressionism)は印象主義(Impressionism)と対局にある芸術的手法だ。印象主義は主に現実の風景が描き手に与えた印象を忠実に再現しようとする。写真のように緻密に写実するのではなく、湖面のきらめきやそよ風、暑さ、まぶしさといった「感じ」を、躍動的な筆致で表現する。それに対して表現主義は現実の風景を参照しない。描き手の内側にある不安や怒りなどの感情を直接表現する。たとえば代表的な例がムンクの絵画「叫び」(1894年)だろう。ぐにゃぐにゃと歪む背景、両手で耳をふさいで身を捩じらせて叫ぶ人物。
 映画が発明されるとしばらくしてドイツで表現主義の技法を利用したサイレント映画が作られた。その代表作『カリガリ博士』(19年)は、命令どおりに動く「眠り男」チェザーレを使って殺人を繰り返す精神病院の院長カリガリ博士を描くホラー映画で、背景の建物はすべて書き割りで作られ、それもすべて斜めに傾き、幾何学や遠近法を無視して歪んでいる。さらに、建物や道に落ちた影もペンキで塗られたものだ。
 バートンは『カリガリ博士』は雑誌の写真で見ただけで『シザーハンズ』を撮るまで実物の映画を観たことはなかったという。しかし、写真で見た「眠り男」チャザーレの容貌がエドワード・シザーハンズのイメージの源泉になったのは間違いない。

●ハサミ男

「誰かいませんか?」
 ペグが屋敷の屋根裏に上がると、部屋の隅っこから奇妙な人物がゆっくり近づいてきた。少年のようだが、青白い顔とクシャクシャの髪はヴィンセントと同じくバートンに似ている。全身黒革の服を着て、手は、指の代わりに巨大なハサミがついていた。
「その手、どうしたの?」
「僕は未完成なんだ」
「ご両親は? お父様は?」
「起きないんだ」
「名前は?」
「……エドワード」
 古城の主は発明家(ヴィンセント・プライス)だった。彼はクッキー製造ロボットなどを作っていたが、野菜切りロボットの1つを改造して人間に近づけ、エドワードと呼んだ。発明家はエドワードを息子のように可愛がり、本を読んで聞かせ、笑うことや泣くことを教えた。そして最後の仕上げとして手のハサミを人間の手に交換しようとしたが、その直前に死んでしまったのだ。
 ハサミの手をした少年、というイメージはバートンが高校生の頃から抱いていたものだという。手のハサミはバートン自身の疎外感の具現化だ。「相手に触ることができない、コミュニケーションできないって気持ちをすごく強く感じていた。すごく思春期的な感情でね。ドラマチックなティーンエイジャーの想いだ。シザーハンズのキャラクターは、僕が抱いていた感覚そのままだ。僕の言いたいことは伝わらない。願いは誤解される。僕はそういう気持ちで世界を見ていた」
『シザーハンズ』で観客が見るのは、孤独な少年の目から見たこの現実世界、人間たちの姿だ。
「これは僕が昔感じていて、今も感じていて、それにたぶん他のみんなも感じている想いとつながっている」

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