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WBLC2023 ワールド・ブルース・リー・クラシック2023、いよいよスタート! 没後50年目のメモリアル・イヤーに捧げる。世界ブルース・リー主義宣言1995 The Manifest of International Bruce Lee-ism

文:江戸木純
初出:1995年『映画秘宝』Vol.3 『ブルース・リーと101匹ドラゴン大行進』タイトル写真『ドラゴン危機一発』© Fortune Star Media Limited. All Rights Reserved.

 人は誰も、ブルース・リーについて語ったり、文章を書いたりするとき、常に苛立たしさを感じ、己の未熟さに腹を立ててしまうことから避けられない。
「凄い!」「強い!」「超カッコいい!」……、いくらブルース・リーを表現しようとしても、ズバリと彼を言い切る言葉は見つからない。
〔映画史上最高最大のアクション・スター〕
〔すべてのマーシャル・アーツ映画の神様〕
〔アメリカン・ドリームを実現させ、真の意味でハリウッドを制した最初の東洋人〕
〔偉大なる世界最高の武道家〕
〔アジアのジェームズ・ディーン〕
〔東洋の叡智と神秘そのもの〕……、確かにそうなのだけれど、そんな最大級の文字をいくら並べてみてもブルース・リーという響きの持つ重みと偉大さを完全に説明することはできない。たとえ何億の誉め言葉を並べてみたところで、彼の筋肉の躍動や神がかりな表情の素晴らしさを正確には伝えることはできないだろう。
 それでも我々は彼が逝って二十年以上経ったこの今も、彼の凄さを叫び、後世に伝えようと空しい努力を続けてしまう。だが、言葉や文章でそれが不可能だと知ったとき、我々に何ができるのか?
 ブルース・リーの凄さを表現するために我々に残された最後の手段、それは彼になりきり、彼の動作や表情を模倣することだった。
「ブルース・リーになりたい!」
 なぜか、人は彼を見てそう思ってしまうばかりか、ひょっとすると自分はブルース・リーに似ているかもしれないと錯覚し、誰もが彼の魂を自分の肉体に憑依させようと躍起になって、滑稽なまでに〔いたこ〕状態になってしまうのだ。
 そして、それはソックリさんとして映画に主演する者から、自分の部屋でヌンチャクを振り回し、腕を痣だらけにしながら悦に浸る者、果ては熱い茶の入った湯飲みを触って「アチョー!」と叫ぶ者まで、それこそ数限りないブルース・リーの模倣者を全世界に同時多発させた。
 明らかにブルース・リーには、それに触れた人々を何らかの行動に走らせるアクティブなパワーに満ちていたし、その効力は今も全く衰えていない。それが、彼の持っている未曾有の影響力の根本にあるものだ。
「映画で世界なんか変えられない」
 映画史に名を残す、多くの真面目で知的だけれど非力で間抜けな映画作家たちは、長年悩み苦しんだ末、そんな結論にたどり着く。
 しかし、間違いなくブルース・リーは映画で世界を大きく変えた。恐らく彼はそれを成し遂げた歴史上ただ一人の人物である。
 もし、ブルース・リーがこの世に存在しなかったら、世界はかなり違うものになっていただろう。何より、ブルース・リーに影響を受けた多くの者たちの人生はまったく別なものになっていたに違いない。
 リュミエール、エイゼンシュタイン、チャップリン、ディズニー、クロサワ、ゴダール、スピルバーグといった者たちでさえ、彼ほどの影響力は持ち得たことはなかった。
 彼が史上最も重要な映画人の一人であることを指摘しないばかりか、まともに取り上げようとしない(かった)映画評論家や映画ジャーナリズムなどに存在価値が皆無なのは言うまでもないことだし、彼について言及することのない映画論などまったく無意味である。
 確かに、ブルース・リーの映画は決して映画的クオリティは高くない。物語はありきたりだし、ロー・ウェイ〔羅維〕やロバート・クローズの演出もハッキリいって凡庸である。でも、ブルース・リーの魅力は、そうしたすべての弱点を補い、フィルムの中に彼が存在することだけで、その作品群を映画史上最も重要な映画たちに高めてしまうのだ。
 ブルース・リーのマーシャル・アーツは、フレッド・アステアやジーン・ケリーの華麗なるタップ・ダンスと同じレベルで語られるべきものだし、『燃えよドラゴン』の格闘シーンが、『シェーン』の決闘シーンや『ベン・ハー』の戦車シーンや『ワイルドバンチ』の銃撃シーンなどと同格で語られないのは理不尽というものだ。さらに言えば、ブルース・リーの芸術的肉体は『ベニスに死す』のビョルン・アンドレセンよりも遥かに美しく、マリリン・モンローより圧倒的にセクシーで、『ジュラシック・パーク』の恐竜よりも絶対に迫力がある。
 そんなことぐらい、まともな判断力があれば誰にでもわかることなのだ。
 つまり、ブルース・リーが世界で最も偉大な映画人の一人であることは宇宙の絶対真理だ。しかし、同時に彼が映画人などというレベルの存在ではないこともまた明らかな事実である。それは、彼が世界で最も偉大な武道家の一であるという、別な角度から見た場合の彼の凄さのことではない。映画に関することだけをとってみても、彼はすでに映画人という言葉では言い表せない、至高の存在なのである。
『燃えよドラゴン』の登場以降、ブルース・リーの影響を受けていない一人のアクション俳優も、一本のアクション映画も存在しないと断言できる。彼は、アクション映画のすべてを根底から変えてしまった改革者であり、近代アクション映画の創始者でもあるのだ。
 ブルース・リーは50〜60年代の黄金期から衰退の一途をたどっていた映画を活気づけ、蘇らせ、映画の面白さを忘れていた若者たちを映画館に呼び戻した。その若い観客たちは、二十年後の今、新しく才気溢れた映画の作り手やスターとなり、彼の意思を継ぐ、斬新で面白い映画を世界中で作り出している。もし、70年代の前半に彼が登場しなければ、映画はとっくに滅びていたかもしれない。つまり、ブルース・リーは映画そのものの救世主なのである。
 ブルース・リー映画の洗礼を受けた者は、映画の世界のみならず、様々なジャンルの表現活動の中で、自分の中のブルース・リーを具体化しようと努力を続けてきた。そして、その成果が最近ようやく多くの実を結び始めている。
 映画界とほぼ同じレベルで、格闘技界が世界的規模でブルース・リーの影響を受けていることは誰もが容易に想像がつく。世界中の現在活躍中の格闘家の中のかなりの割合の者たちは、ブルース・リーを見て、彼になりたくて格闘技を始めた〔いたこ〕世代である。また、そうでなくても、様々な異種格闘スタイルや総合格闘技の追求という点において、すべての格闘家はブルース・リーという存在を意識せざるをえない。つまり、ブルース・リーは現代格闘技の創始者であり、ほとんどの格闘家は彼の弟子的存在ともいえるのだ。
 また『ドラゴン・ボール』などの格闘技コミックや『ストⅡ』や『バーチャファイター』に代表されるコンピューター・ゲームの背景にあるのも、ブルース・リーとその影響下のマーシャル・アーツ映画であることは間違いないし、現在活動する若手のマンガ家やゲーム・デザイナーにおける、ブルース・リーの熱狂的ファンの確率は驚くほど高い。
 彼らは、紛れもなくコミックやゲームによる、ブルース・リーの〔いたこ〕であり、そうした作品の愛好者は、その作品を通してブルース・リーになりきり、〔いたこ〕と化しているのである。
 また、音楽界、特にヒップホップ系ミュージシャンの間にも、ブルース・リーの影響は顕著である。ビースティ・ボーイズは各種の格闘技の良い部分を研究して完成させた截拳道(ジークンドー)が、サンプリングと同じ行為だと指摘し、その発想がラップ・アーティストに極めて類似していると語っている。メッセージ性の強いアクティブなミュージシャンが、ブルース・リーの持つ〔いたこ化パワー〕に影響を受けるのは容易に理解できる。
 またブルース・リーが東洋人というマイノリティだったことも大きな理由だろうし、『燃えよドラゴン』にジム・ケリーというアフリカン・アメリカンの俳優が準主役で出演していて、あの映画が当時流行していたブラックスプロイテーション映画としての要素を持っており、何よりラロ・シフリンの作曲によるサントラが、そのツボを心得た極めてファンキーなものだったということも重要な要因だろう。
 とにかく、ブルース・リーは90年代のすべてのクリエイティブなものの精神的基盤として存在しているのである。
 ブルース・リーは、彼の映画を観た者に〔いたこ〕的行動を起こさせる以前に、見る者に極めて強力な活劇を与える。それは、自らを鍛えようとする者に対してより強烈に効果を発揮する。
 そして、そんなパワーの根底にあるもの、それは彼の映画に基本的に流れる差別の克服である。
『ドラゴン危機一発』の、タイに出稼ぎに来たばかりの喧嘩を禁じられた若者、『ドラゴン怒りの鉄拳』での日本人の暴虐と戦う直球的性格の中国人、『ドラゴンへの道』でのローマ(西洋)の中国人(東洋)、『燃えよドラゴン』におけるハリウッド映画の中のストイックな中国人(東洋人)エージェント、『死亡遊戯』の格闘における身長差……、彼の演じたキャラクターは常に被差別者であり、いつもなんらかの弱みを持っていた。だが、彼は自分の力でその状況に真っ向からぶつかっていく。
 その爽快感と悲壮感、それは見る者が弱い立場にいる者であればよりリアリティを持って伝わってくる。
 だから彼の熱狂的ファン層の核は、人種差別の被差別者からグループ内のいじめられっ子まで、世界中のマイノリティである。しかし、もちろんそれがすべてではない。ブルース・リーの映画は、被差別者に戦う元気を与えるのと同時に、差別の側にいる者にも差別される者の気持ちを理解させ、正しい行いを促す効力まで持っている。また、強い者に対しては、相手を倒すことの痛みと哀しさを、映画で初めて見せたことで、反暴力の映画として肉体に染み透っていくのである。
 日本にも、幼い頃『ドラゴン怒りの鉄拳』の、戦争映画におけるドイツ兵のような日本人の悪役ぶり(後前に履かれた袴は幼な心にも違和感があったが)を見て、日本がかつてアジア各地でとんでもないことをしていたことをズシリと認識し始めた者は多い。べつにあの映画自体は日本人にそんなことを教えようとして作られた作品ではなかったけれど、ブルース・リーが出ているというだけで強烈な教育的効果が付加されていた。
 たとえ、それだけではまったく価値のないものであっても、彼が関わったり、触れたりしたものはすべて黄金のように光輝き、価値あるものとなった。それはまさしく、奇跡としかいいようがなかった。
 また『ドラゴン危機一発』が、アジア地区以外ではレバノンのベイルートでの短期間の自主上映で大ヒットし、彼の人気が世界的にブレイクしていったという事実は極めて象徴的である。その直後、75年にレバノンは泥沼の内戦に突入していくのだ。
 ブルース・リーの映画が戦争を引き起こしたといっているのではない。彼の映画には、抑圧され、爆発しそうな人間の魂にダイレクトに反応し、それを解き放つ作用があるということだ。当時、レバノンの人々はまさにブルース・リーを欲していたのだろう。つまり、彼の映画がもっとたくさん、長期間上映されていれば、ひょっとすると内戦は回避できたかもしれない。

 ブルース・リーは語っている。
「私の映画は暴力そのものではなく、暴力が起こる原因を描くものであってほしい」と。彼の映画は決して無意味な暴力を呼び起こすものではない。但し、反権力や絶対的な悪に対するものとしての暴力や行動を誘発しないと言い切ることもできないけれど……。
 一人の人間がこれほど地域的にもジャンル的にも幅広く、人々を行動させた例はかつてなかったし、これからもないだろう。
 ブルース・リーをキリストやブッダと同じような、いや、それよりも遥かに超越した神そのものとして崇め奉ることさえ厭わない者も数知れない。実際問題、彼は我々の前に登場したときすでに人間ではなかった。最初から映画という虚構の中にしか存在しない偶像だったのだ。
 すでにこの世には存在しない者の姿に感動し、憧れる奇妙な感情。我々はすぐに彼を盲目的に崇拝した。しかし、それは決して無意味でも不毛なことでもなく、多大なる御利益を我々に与えてくれた。
 ブルース・リーを知っているか、いないか、彼を好きか、そうではないか。それは人間の幸、不幸、運、不運を左右する。多くのマインド・コントロール宗教にハマってしまった者たちも、映画の中でブルース・リーと出会って、その輝きに触れて本物を知ってさえいれば、インチキ教祖の明らかな偽者ぶりを見破ることができ、誤った解脱や無意味な修行のために青春を棒に振ることもなかっただろう。
 今この瞬間も、世界はブルース・リーを中心に回っている。真実にたどり着けるのは、それを知る者だけである。

WBLC2023ポスター

WBLC2023 ワールド・ブルース・リー・クラシック2023は7月14日(本日)より新宿ピカデリー、なんばパークスシネマ他にてスタート!

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