見出し画像

ワールド・ブルース・リー・クラシック2023開催記念再録 世界ブルース・リー主義宣言2010 いま、世界にブルース・リーが足りない。今こそ彼が我々に必要なのである。我々はもう一度彼と出会い、明日へのポジティブな活力を身につけなければならない。

文:江戸木純
初出:2010年『世界ブルース・リー宣言 龍教聖典』収録
タイトル写真『死亡の塔』© 2010 Fortune Star Media Limited. All Rights Reserved.

我は生まれながらにして
これを知る者にあらず。
古を好み、敏にして以て
これを求むる者なり。 孔子「論語」

人が達成できる最高のことは、
為すという能力である。 G・I・グルジェフ「グルジェフ・弟子たちに語る」


 いま、世界にブルース・リーが足りない。それは間違いなく、徹底的に足りない。
 ブルース・リーの死から今年で早くも37年、彼の生誕70周年という記念すべき年、世界に漂うこの異様な閉塞感は何だ。地球を覆うこの不快な無気力感は何だ。
 その原因はズバリ、ブルース・リーの欠乏にある。
 これは、地球温暖化や2012年問題、新型インフルエンザのパンデミックやリーマン・ショックにはじまる世界金融危機、そして日本を覆うデフレ・スパイラルやゆとり教育の取り返しのつかない弊害と同じくらい深刻な問題だ。
 いまや世界の様々な分野でブルース・リーは希薄となり、人々はポジティブなバイタリティやクリエイティブなエネルギーを失って、この世はもはや末法の世と化しつつある。
 我が日本を見渡せば、街に彷徨する将来への不安を抱え、行き場を失った若者たち。かつて抱いた夢も希望も忘れ、疲れ果て、諦めきった大人たち。焦点の定まらない虚ろな目で無表情に謝罪ばかり繰り返す愚かな元首相やら、テレビに溢れるバカであることを芸とする醜悪なる烏合の衆、そしてスクリーンを埋め尽くす駄作や失敗作にも至らないクズ映画の数々……、日本はいつから、かくも他人の信頼を裏切り、やる気を削ぎ、脱力させる者たちで埋め尽くされてしまったのか。
 いまこそ、我々に必要なのはブルース・リーである。我々はもう一度彼と出会い、明日へのポジティブな活力を身につけなければならない。

 確かに、いまもブルース・リーの写真や映像、あるいは彼の台詞は様々な媒体で、多種多様なかたちで消費され続けている。しかし、なぜかそこに本物のブルース・リーはいない。外見だけの記号やファッションと同様に使われるそれらの中に、彼の魂が宿っていないと感じているのは私だけではないはずだ。
 例えば、「考えるな、感じるんだ!」という『燃えよドラゴン』に登場する有名な台詞が、世界中の数々の映画やテレビ番組、漫画や小説、コラム等で安易に使用されている。だが、その使い方の多くは決定的に間違っている。
 ブルース・リーは、何も考えずに愚かな感覚だけで行動しろなどとは決していっていないのだ。彼は、自らを律し、日々の厳しい修行は当然のこととして続け、基本を身につけたうえで、さらにセンスを研ぎ澄ます努力をしろといっているのである。にもかかわらず、彼の言葉は今日も、怠惰なる実働からの逃避や、無節操や無分別、無軌道な暴走の免罪符として見るも無残に乱用されている。

 さらに、ブルース・リーが『死亡遊戯』で着用した、いわゆるトラック・スーツの凌辱的多用も目に余る。思えば、『死亡遊戯』の日本での初公開直前に放送されたテレビの特番で故・水野晴郎氏があの衣装を着て番組に登場するという暴挙に出て以来、多くの者たちが一度はトラック・スーツに身を通してみたいと思ったことだろう。だが、近年それは様々なCMやテレビ番組などで“イケてないもの”の象徴として笑いを誘う道具として使用されている。
 もちろん、ブルース・リーへのオマージュとして使用される例も少なくはないが、あのクエンティン・タランティーノでさえ『キル・ビル』の中でトラック・スーツを着たユマ・サーマンに、ハイキック・アクションではなく日本刀を持たせて殺陣を演じさせるという愚行に出て、平気な顔をしている。あの黄色地に黒いストライプの入ったトラック・スーツは、ブルース・リーの肉体を裸体以上に美しく見せ、ハイキックを華麗に見せるためのもの。あれは屁っぴり腰のチャンバラ用の体操着とは根本的に違うということをタランティーノはまったくわかっていない。あの衣装は、足が自分の頭まで上がらない者は着てはいけない。知ったかぶりした大物の勘違いほど悪質なものはない。おかげで、『キル・ビル』以降、どれほど世界中でトラック・スーツが悪用され、結果的にブルース・リーの意図が大きく歪められているかということを少しは考えてほしい。少なくとも今後、お笑いバラエティにおけるトラック・スーツの着用は即刻法律で禁止すべきである。

 この数十年、ブルース・リーについて数えきれないほど多くの書物が出版された。しかし、『映画秘宝VOL.3 ブルース・リーと101匹ドラゴン大行進!』をはじめとする数少ない例外を除き、彼について書かれた書物の多くは、映画スター、ブルース・リーというより武道家にして哲学者としての彼について書かれた本である。そして、それらの本の中にも、我々が熱狂したブルース・リーを見つけることはできなかった。なぜなら、世界中の多くの人々にとって、彼はあくまでも“映画スター”だからである。映画スターである彼の魅力、そして彼の映画を深く掘り下げることなしに、ブルース・リーの真実を知ることなど果たしてできるだろうか。もちろん、そんなことは不可能だ。『ドラゴン危機一発』の彼のファースト・ショット、あの田舎から出てきた純朴な青年の表情、『ドラゴン怒りの鉄拳』の初登場シーン、あの純白の衣装に身を包んだ意志の強い若者の姿、あんな芝居はただの武道家には絶対にできない。誰が何といおうと彼は武道家や哲学者である前に、立派な“役者”であった。

 多くの有名、無名の関係者の証言や体験の数々、そのほとんどは語り手の中で増幅され、美化されたものであり、真のブルース・リーはそこにはいない。そもそも正直いって、彼の私生活や実人生、生い立ちや彼がどう生きたか、なぜ死んだかなどを追うことが、芸能マスコミ的好奇心以外に我々に何の関係があるのか? 暗殺説や腹上死説など、かつて様々な噂が乱れ飛び、いまでは逆にベティ・テンペイの名前などがバイオグラフィからあえて意図的に排除されているかに見える。そこにあるのは、ブルース・リーはもうこの世にはいないという事実。と同時に、そこから明らかになるのは、間違いなく彼も人間であったということだ。

 確かに私は何度も、あるときは活字で、あるときは自らの言葉でブルース・リーを神格化し、崇めてきた。だが、彼を聖人君子だなどといったことはない。彼がストイックなトレーニングの鬼だったことは間違いないが、彼が出家した僧侶のように何事にも無欲であったはずはなく、自らの夢や欲望を実現していくために貪欲で計算高く、ときに尊大で気難しい一面も持っていた豪快かつパワフルでエゴイスティックなスターの輝きも含め、我々は彼を愛し、尊敬したのだ。彼が世界中の少年たちに与えた最大の夢は、“強くなりたい”というよりも、“強く、そしてビッグになりたい”である。多少矛盾しているように聞こえるかもしれないが、我々はブルース・リーをいかに映画の神と崇めても、彼を本物の聖人や超人であったなどと勘違いしてはならないし、彼を伝説的映画スターから、空虚な宗教的偶像として空想化し、彼の存在や考え方を伝統や権威として停滞させてしまおうとする動きを徹底的に阻止しなければならない。

 ブルース・リーが武道家として天才的に優れていたのは事実だし、それがなければ映画スター、ブルース・リーも存在しなかった。だが、武道家ではない我々にはそれはあまり意味のないことだ。彼が本当に強かったかどうか、彼の創設したジークンドーが真に究極の武道なのか、それは物事の本質ではない。我々の前にあるブルース・リーの真実とは、彼が映画の中で奇跡のように輝いていたことであり、その真実を知り、それを実感するためにはただ映画を観ることしかない。

 ブルース・リーは確かに魅力的な哲学者の側面を持っていた。だが、すべての哲学者が言葉の表面だけでは理解できないように、彼の語った一見明快で即効力のある言葉の数々を、深く思索を重ねた経験もない者たちが疑いもなく流用するのは危険な行為である。

 果たしてブルース・リーは真実にたどり着いたのか? 誤解を恐れずにいうならば、答えはNOだろう。だが、だからこそブルース・リーは魅力的なのだ。これは決して批判ではない。
 32歳という若さで世を去った彼は、先人たちの映画、武道、哲学をしっかりと学び、天才的なセンスと基本の学習から得られたテクニックによって、それらの良い部分のエッセンスを抽出し、それらを鮮やかにミックスさせて“ブルース・リー”という圧倒的な魅力を持った自己を実現した。だが、それは決して究極の姿でも、完成形でもなかったはずだ。何しろ、あの仏陀でさえ解脱に達したのは35歳のときである。

 あらゆる格闘技を研究し尽くした武道家としてのブルース・リーが熱く語られる一方、哲学者としての彼の側面に関しては、多くの人々が彼の言葉を鵜呑みにしてしまうのはなぜだろう。彼が格闘技を深く研究し、実践したように、彼が様々な既存の哲学書や思想家たちの書物を読み漁り、その名言集をサンプリングして自らの言葉に変えていったと考えるのはごく自然な流れだろう。私の手元にある書物の中からもブルース・リーの思想に近い格言を探し出すのはそう難しい行為ではない。
「人を以て言を廃せず」(孔子)
「東洋の理解と西洋の知識を取り、そして求めなさい」(G・I・グルジェフ)
 ブルース・リーが映画で表現した柔軟性や流動性の大切さ、覚醒や探究心の必要性、そして革新的なチャレンジ精神は、彼がまとめ上げた哲学そのものである。だが、その考え方そのものは、さほど革新的なものとはいい難い。それは多くの哲学の基本に近く、シンプルだから肉体言語と一体化し、伝わり易いのだ。もちろん、ブルース・リーの哲学を学ぶことは心の“ドラゴン”を育てるために有益である。だが、それを自らの言葉として使おうとする者は、その前に、せめて『論語』やバートランド・ラッセルの『幸福論』くらいは読んでおくべきである。
 何よりも危険なのは“妄信”である。それはブルース・リーの哲学と最も相反するものだろう。

 凡庸な私でさえ、最初の「世界ブルース・リー主義宣言」を書いた33歳までに経験し、学んだことと、その後の15年で学んだことの、実質的な価値は後者のほうが何倍も大きい。
 映画的技術、武道的精神、哲学的思索、すべての面において、あと10年でも、20年でも、できれば37歳よりさらに、彼が生きていれば人類が驚愕すべき境地に達することができた可能性はある。その圧倒的な悔しささえもブルース・リーの魅力を形成する大きな要素といえる。
 彼は突然の死によって、究極を求め続ける未完の美学を実現させてしまった。最もわかりやすいのは未完成なゆえに輝きを失うことがない『死亡遊戯』という映画だ。あの作品は、観る者が本来の完成図を想像することで、彼に対する新たな興味や探究心をいまも湧き起こさせるパワーを持っている。未使用フッテージを使った新バージョンが次々と登場したミステリアスな歴史も含め、まさにそれは“永久運動”を続ける機械のように、ブルース・リーの無限のエネルギーを生むために永遠に機能し続けるのである。

「ブルース・リーの映画を観よ!」というのは別に彼の映画を懐古し、振り返ってそれを観るべきだというのではない。彼の映画から得られたポジティブなパワーやエネルギー、教訓を有効活用して、前向きかつよりクリエイティブな人生の活動に役立てるべきだという未来に向けられた現在進行形の提言である。
 いわばブルース・リーの映画は、多くの哲学者たちが提唱する“覚醒”のためのスイッチなのだ。目覚めた後のことは各自の責任である。

 ブルース・リーを語るとき、彼の主演映画から離れるべきではないと痛切に感じるのは、ブルース・リーという名前や彼のビジュアル・イメージが独立して消費されることによってそれが流行に左右されるファッション、あるいは単なる偶像として扱われることだ。そのことによって、彼の本質が詰まった映画そのものが忘れ去られてしまうことを加速する可能性があるだけでなく、そのファッション化や偶像化という行為が、新しいファン層を拡大するよりも、古くからの熱狂的なファンを囲い込み、彼らだけでなくブルース・リーそのものを搾取する目的のために利用される傾向にあることが問題だと思うからだ。
 ブルース・リーの死の直後、かつてアジアの映画界は“ソックリさん”という驚愕の搾取装置を開発して無数のニセモノ映画を製作した。あの頃がブルース・リーのイメージを使ってまるで無法地帯のように搾取行為を行った第1期ブルースプロイテーションの時代だったとすれば、権利ビジネスが確立したことでそのイメージ・ビジネスが加速する現代は第2期ブルースプロイテーションの時代といえる。第1期が主に、本当のファンというより手っ取り早い金儲けを目論む欧米の映画会社からの搾取だったのに対し、第2期は長年にわたりブルース・リーを崇め続けてきたコアなファンの熱い想いからの搾取となる性格を持っていることがより悪質である。もちろん、ビジネスは自由である。だが、こうしたファンありきの世界においては、そこには確固たる大義が必要なのだということをそれに携わる者たちは肝に銘じておかなければならない。また、商品化ビジネスは、常に大きな利益を生む可能性を秘めてはいるが、マーケティングの失策は、ブルース・リーや彼の映画のイメージをも劣化させる諸刃の剣であることも認識しておくべきだろう。
 今年の4月、東京・六本木で「生誕70周年記念・奇蹟のブルース・リー展〜甦る! 永遠のヒーロー ブルース・リー!」というイベントが開催された。
 私も期待を胸に会場に足を運んだが、正直残念な気持ちでいっぱいになった。いきなり入口にあるのは等身大のブルース・リーのキック姿、蹴られた相手の顔は丸く穴が開いていて、そこから顔を出して写真を撮ることができる巨大なポップである。もちろん、熱狂的かつ、無邪気なファンたちは楽しげに写真を撮っていた。だが、これで本当にいいのか? 入場券を買おうとしたら「チケットの絵柄が3種類ありますがどれにしますか?」「3種類全部買うとおまけがつきます」。バンダイのアニメ商法も真っ青な、恐るべき商魂。全部見るのに15分とかからぬ会場の出口付近に待っているのは「有料記念撮影」。この場末の温泉観光地の秘宝館のようなセンスは何だ? もちろん多くのファンはブルース・リーのための散財など気にしないかもしれない。でも、それで心は痛まないのか? 確かに、『ドラゴンへの道』のハコ書き台本の現物や写真で何度も見たいことのある衣装など、展示品には貴重な品々も多かったし、初めて見る写真も多々あった。でも、そこに感じられたのはブルース・リーの偉大さを広めようとか、新しいファン層を広げようとか、新たなムーブメントを起こそうといった前向きなエネルギーではなく、まさに限定的なファンを対象にした遺産ビジネスとでもいうのがピッタリの閉じたイベントだった。ハッキリいう。「生誕70周年記念」と銘打つイベントがこんなことではダメだ。ブルース・リーはこんな“ドラゴン”の希薄な展示をやっていいといつ許可したのか?

 このイベントの最大の欠点こそ、“映画”があまりにも稀薄なことだった。一応主演作の解説はそれぞれ掲示されてはいたものの、国内版はおろか、海外版のポスターやら看板、チラシの類は一切なく、もちろんその映像もどこにもない。これだけのイベントを行うなら、せめて権利元と交渉してモニターで予告編集を流したり、場内にサントラやらマイク・レメディオスの主題歌を流すというのは最低限の基本ではないだろうか。
 さらにいえば、映画の上映権を持つ会社との交渉を経て、開催同時期の主演作本編の上映会、会場でのDVD即売などを行うのも当然の流れではないのか。いくら遺品を展示したところで本尊あるいは教典ともいうべき“映画”そのものがなければ、それらはただの遺品であり、輝くことはない。いわばそれは、まるでゴッホやルノワールの展覧会に、画筆やパレット、衣装や手紙だけが展示されているようなものである。
 心の中の引き出しからヌンチャクを取り出し、いまもその回し方を覚えている自分の筋肉に聞いてみるがいい。我々が熱狂し、信じられないパワーとエネルギーを得た原点は、映画のみであり、すべての源はフィルムに焼きつけられた彼の躍動の中にあるのだ。いま、我々がなすべきことは、彼の人間としての実像を追い求めることに固執したり、その功績を歴史として評価したり、その遺した物品や商品に執着したりすることではなく、もう一度、一から彼の映画に触れ、いまも輝きをまったく失うことのないブルース・リーの魅力とその偉大さを再確認することではないのか。我々は何度でも彼の映画を観て、ブルース・リーをじっくりと体感することのみにより、その思想を知り、実践し、ドラゴンを胸に熱く燃え、それぞれの分野で混迷の時代をしっかりと生きるべきではないのか。
 さらにブルース・リーがいまも語られ、売られる一方、なぜか我々があれほど応援し、その死を悼んだ彼の息子ブランドン・リーに関しては顧みられることはほとんどなくなってしまった。彼は間違いなくブルースの遺伝子を受け継ぐ存在だった。日本におけるブルース・リーの伝説の第1章は、『燃えよドラゴン』にはじまり、『クロウ 飛翔伝説』で終わる大河ドラマである。だからこそ、我々はブランドンの生き様や映画の魅力も含めて語り続けなければならない。これはブルース・リーを愛する者にとっての義務といっても過言ではない。

 ブルース・リーという“映画の神”の真実は、我々がなぜクリント・イーストウッドを崇め、サム・ペキンパーを崇拝し、『ゾンビ』をもうひとつのバイブルとすべきか、あるいはなぜ、あえてリスクを負ってまで私がつまらない日本映画を徹底的に攻撃しなければならないのか、ということにも決して無縁ではない。
 ゼロ年代とかいう鼻持ちならない時代は過ぎ、ブルース・リー生誕70周年の今年、ハリウッドでは『グリーン・ホーネット』や『燃えよドラゴン』がリメイクされ(それ自体は歓迎すべきことなのかどうかはわからないが)、香港ではドニー・イェンが『ドラゴン怒りの鉄拳』の後日譚『精武風雲』や『葉問2』に主演し、チャウ・シンチーも『カンフーハッスル2』を準備している。また、タイではトニー・チャーが彼の『死亡遊戯』ともいうべき大傑作『マッハ!弐』の続編『マッハ!3』(仮)を作るなど、世界で“ドラゴン魂”は停滞することなくエネルギッシュな活動を続け、ブルース・リーの霊力は復活のときを目前にしている。

 だからこそ、ブルース・リーに関わるものはもっと真剣に、もっと本気でことに当たらなければならない。そうだ、我々ももう一度映画スター、ブルース・リーの魅力と偉大さの洗礼を受け直し、再布教を開始すべきときがきたのだ! 必要なのは批評ではなく、行動である!

●提言1
「午前十時の映画祭」事務局は、2011年度のラインナップにブルース・リー主演映画を必ず入れよ!
●提言2
 心あるブルース・リー関係者たちは“ドラゴン”の名のもとに結集し、展示と上映を組み合わせた、未来に開かれたブルース・リー・イベントを企画し、準備せよ!
●提言3
 日本のビデオ・メーカーは、日本語吹替版及び日本初公開時の英語版音声が入った、香港時代主演作のDVDとブルーレイ・ディスクを発売すべく行動を開始せよ!

「ブルース・リーを見よ!」そして、「考えるな、感じるんだ!」(この使い方は間違いではない)まずはそこからはじめよう。
 あなたの人生が実りあるものになるか否か、それはブルース・リー映画を一生に何度観ることができるか、そしてそこから何を受け取るかにかかっている。
 忘れるな、いつも心にドラゴンを!!

 MAY THE DRAGON BE WITH YOU!!

WBLC2023ポスター

WBLC2023ワールド・ブルース・リー・クラシック 香港5大作、最初で最後の上映! 新宿ピカデリー、なんばパークスシネマ他にて開催中!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?