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『羊たちの沈黙』 町山智浩単行本未収録傑作選28/90年代編8 「ハロー、クラリス。まだ羊たちの悲鳴は聞こえるかね?」 なんとなくわかったような気がして終わるこの映画、本当に君たちは理解しているかね?

文:町山智浩
初出:『映画秘宝』2003年3月号

 アカデミー賞を総ナメにした『羊たちの沈黙』は、90年代サイコ・ホラー映画ブームの火付け役にもなった。
 女を誘拐して皮を剥ぐ変態殺人鬼、やる気だけはマンマンの未熟な女捜査官、そして人喰いの天才博士ハンニバル・レクター。
 まあなんとなくわかったような気がして終わりのこの映画、本当に君たちは理解しているかね?
 そもそもクラリス・スターリングが耳にする「羊たちの悲鳴」とは何か、知っているのか?
 何故レクター博士は殺害した警官の腹をカッ捌いて飾りつけたのか?
 そう、『羊たちの沈黙』には幾つもの隠された意味がある。
 脳みそのソテーでも食べながら、このモザイクのような映画を観直してみよう。

 ヨハネはイエスを見て言った。
「見よ。世の罪を取り除く神の子羊だ」ヨハネの福音書1章29節

 紀元前221年。現在のチュニジアにあった国カルタゴの知将ハンニバルは象の軍団を率いてスペインからアルプスの雪国を越えて大ローマ帝国に攻め込んだ。結局カルタゴは敗れたものの、あまりに信じ難い奇襲に度肝を抜かれたローマ人の間ではいつしか「ハンニバルは人を食う」という噂が生まれ、親は子供に「いい子にしないとハンニバルが来ますよ」と脅かした。
 ちなみにハンニバルのニックネームは「ムクドリ」だった。英語ではスターリングStarlingという。『羊たちの沈黙』(91年)は小鳥のような少女スターリングと人食い鬼ハンニバルの物語である。

●なぜ羊なのか?

 1988年にトマス・ハリスが発表した小説『羊たちの沈黙』は、ハリスの前作『レッド・ドラゴン』で登場したハンニバル・レクター博士が活躍する一種の「安楽椅子探偵」もの。現場に行かず、椅子に座って話を聞いただけで見事な推理を披露する安楽椅子探偵はディクスン・カーのフェル博士から都築道夫の泡姫シルビアまで様々だが、レクター博士は自分自身が連続殺人鬼で犯罪者用の精神病院に収監されている。
『羊たちの沈黙』は日本でもベストセラーになり、ジョナサン・デミ監督による映画化はサイコ・スリラーにして初めてアカデミー賞で作品賞をはじめ5部門独占の快挙となった。
 しかし、今見ると『羊たち〜』は映画としては極めて古典的。悪く言えば凡庸だ。ハワード・ショアの音楽など、まるで往年のドラキュラ映画のように笑えるほど大袈裟。『フィルム・コメント』誌のギャヴィン・スミスははっきり「『羊たちの沈黙』には何一つ斬新さはない」と断言している。
 では『羊たち〜』の魅力とは何なのか?
 レクター博士は博覧強記で、ブラックパンサーの指導者エルドリッジ・クリーヴァーの聖書解釈からA・デュマの『大料理辞典』に書かれたカラス料理のレシピまで、さながら小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』のごとくこれみよがしに引用し続ける。それも『羊たち〜』の楽しさの一つだが、単なる衒学趣味ではない。『羊たち〜』の引用、ディテール、それにキャスティングにいたるまでが実は密かに(時に偶然)テーマを暗示する「謎かけ」であり、それが『羊たち〜』に底知れぬ深さを与えている。その「謎」の中には、最も重要でありながら、何千万人にも及ぶ読者と観客がなぜか気にかけない問いも含まれている。すなわち−−、
 なぜ羊なのか?

●マインドハンター

 ヴァージニア州クワンティコにあるFBIの訓練学校から映画は始まる。大学を卒業したばかりの訓練生クラリス・スターリング(ジョディ・フォスター)は行動科学班のジャック・クロフォード(スコット・グレン)に呼び出される。
 クロフォードのモデルはジョン・ダグラス。彼は行動科学班で過去の類似した犯罪者の行動パターンから逃亡中の犯人の気持ちになりきり次の行動をシミュレートする「プロファイリング」という手法を使って5,000人以上の逮捕に貢献した。トマス・ハリスはダグラスがFBIの行動科学班で追跡した連続殺人鬼「サーチ&デストロイヤー」をモデルに『レッド・ドラゴン』を書いた。『マインドハンター』という著作もあるダグラスは『羊たち〜』にアドバイザーとして協力している。
 ハリスが行動科学班について特に興味を持ったのは、収監中の連続殺人鬼に別の犯罪者の行動を予測させる方法だ。ここからハリスは「獄中の名探偵」レクター博士(アンソニー・ホプキンス)を思いついた。クラリスが呼ばれたのは、クロフォードとの面会に応じないレクターに質問するため。「バッファロー・ビル」と呼ばれる連続殺人犯についてだった。

●バッファロー・ビルの3人の父

 バッファロー・ビルは西部開拓期にバッファロー3千頭以上を射殺したハンター。後にワイルド・ウェスト・ショーを率いたことで有名だが、警察は犯人がバッファロー・ハンターのように、女性を殺して皮を剥いで捨てるので、そう呼んでいる。
 原作者のトマス・ハリスは70年代、AP通信社で犯罪報道を担当していた。彼は有名な3人の殺人狂を元にビルを創造した。女性の皮を剥いでチョッキにしていたエド・ゲイン、女性を地下室に監禁して「人間牧場」を作っていたゲイリー・ヘイドニック、それに腕に石膏のギプスをして女性の同情を買い、彼女らを誘拐レイプ殺人していたテッド・バンディである。
 テッド・バンディはおそらく、レクター博士のキャラクターのヒントにもなっている。4年間に36人もの女性を虐殺したバンディは容姿端麗、頭脳明晰、教養とユーモアにあふれ、冷静で落ち着いた紳士でもあった。

●答えは最初にあった

 知能指数は180と言われるバンディは、州知事の推薦で名門大学の法学部に進み、「将来は共和党の議員になる」と噂されたインテリ。逮捕された後も自分で自分を弁護し、法廷ではソルジェニーツィンや禅の哲学を引用して博識ぶりを見せつけた。しかも2度も刑務所から脱獄し、逃亡中の78年1月15日、フロリダの女子大寮に侵入して4人の女子大生の頭を叩き割った。レイプもせずに。天才的な頭脳を持つ男がなぜ無意味な殺戮を繰り返したのか? 誰にも理解できなかった。
 逮捕されたバンディは獄中でFBIの行動科学班にその優秀な頭脳を貸そうと申し出たがかなわなかった。89年1月にはついに電気椅子で処刑されたからだ。
 バンディは人殺し以外ではまったく正常な男だったから死刑になったが、なぜか9人殺したレクター博士は精神異常と判定され、精神病院で生かされている。おかげでクラリスは彼に面会することができた。防弾ガラスの檻の中でレクター博士は絵を描いていた。
「フィレンツェだ。ベルヴェデールから見たベッキオ宮殿とドゥオモだ」
 実はこの時点ですでにレクターはクラリスに答えを示している。ベルヴェデールは丘の上にある要塞で、ここからフィレンツェを一望のもとに見下ろすことができるが、実はアメリカのオハイオ州にも同名の土地があり、そこにクラリスが追い求めるバッファロー・ビルが住んでいるのである。

レクター博物館その1
「磔刑図」ドゥチオ
「ヨハネ福音書の内容を知らないのか? それならドゥチオの絵を見たまえ。彼は十字架のキリストを正確に描いている」 ドゥチオは13〜14世紀のイタリア、シエナの画家。それまでのヴィザンチンの様式美から脱皮し、リアルで人間的な表現を開拓していった。レクターが言っているのは「磔刑図」。

●In the Company of Men

 レクターはクラリスを値踏みする。
「君はまだ本物のFBI捜査官じゃないな。必死で出世しようとしている。バッグは上等だが靴は安物。君はRube(田舎っぺ)だ。隠そうとしても田舎の訛りがまだ残っている。両親はホワイト・トラッシュ。ボーイフレンドと車でペッティング。そんな人生から抜け出そうとFBIに飛び込んだ。そうだろう?」
 クラリスはホワイト・トラッシュ出身で女性という二重の被差別性を背負っている。映画『羊たちの沈黙』は、冒頭からずっと背の低いジョディ・フォスターと体格のいいFBI職員や地元保安官たちとの身長差を強調する。また、すれ違うどの男も必ずジロっとクラリスを視線で舐めまわす。その目は皆、こう語っている。「ここはお前のような小娘の来るところじゃないぞ。でも、なかなか美人じゃないか。ちょっと遊んでやってもいいな」。
 そんな視線を跳ね返すようにクラリスは胸を張り、顎を上げ、媚びた笑顔で「女を売る」ことなく毅然と振舞う。それでも精神病院のチルトン所長は露骨に彼女を誘い、レクターの隣の檻の狂人ミッグスは叫ぶ。
「オマンコの匂いがするぞ!」
 それにも耐えたクラリスだが、今また、レクター博士からもただの田舎娘と蔑まれた。「帰りたまえ、お嬢さん」。敗北感に包まれて帰ろうとしたとき、隣の檻のミッグスが自分の精液をクラリスに投げつけた! その時、
「スターリング捜査官!」
 レクターがクラリスを呼び戻した。「博士は大変珍しいことに興奮していた」。頬と髪にベッタリと狂人の生暖かい体液を浴びながら悲鳴も上げず声も出さなかったクラリスに心を動かされたのだ。そして彼は最初のヒントをくれる。
「僕は昔から、女性が戦う映画に弱いんだ」。ジョナサン・デミ監督は『フィルム・コメント』誌のインタビューでそう語る。

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