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秘宝秘史4 昭和46年、群馬の夏『ゴジラ対ヘドラ』の思い出

 自分が最初に映画館で観た怪獣映画は『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』だった。幼稚園年少組の頃で、子供雑誌で見たカメーバに惹かれたのだが、映画前半で暴れ回るゲゾラが何とも不気味で、円谷プロのウルトラマン・シリーズとは違う感触があった。
 映画館で観る怪獣にはテレビの怪獣とは違うサムシングがあるとよくわかっていないながらも気にするようになった(映画館の怪獣に近いテイストを感じたのは翌年にテレビで始まった『スペクトルマン』だった)。
 僕の父は物理畑の人で会社で研究、家に帰って読書といった生活サイクルを送っていた。そこで病気持ちで不眠症気味だった息子が夜遅くに家の中を彷徨うのを嫌った。「眠れない、眠れない」と階段を行ったり來たりする息子に対して、父は「無理に寝ないで良い。好きなテレビを見なさい。ただ。し横になったり、椅子に座って見たらダメだ。立ったまま見なさい」と言った。そのおかげで夜の10時台に放映されていたドラマなども見ることができた。それで1時間くらいするとぐったり寝込んでしまい、父はテレビ狂の息子を布団まで運んでいたらしい(父はもう亡くなったので、何を考えて、あんなことをさせたのか、聞き出すことはなかった)。
 翌1971年、父は詰めていたゼネコンの研究室から群馬県高崎市にある原子力研究所(正式名称は高崎量子応用研究所)への出向を命じられた。そこで転勤扱いになり、一家は高崎市の社宅(4階建の団地)へと引っ越した。社宅の窓からは山並みが見える部屋だった。ちょうどその時期、連続殺人犯の大久保清が逮捕されて、高崎の街中は異様なピリピリした空気があった。父は原研で論文を書けば横浜に戻れるそうで、夜遅くまで家に帰ってこなかった。
 僕は幼稚園を転園し、それから2ヶ月もしないうちに夏休みに入った。父もこのタイミングで研究所が休みになったらしく、僕が家にいるのを嫌がった。そこで母は僕を高崎の繁華街にある映画館に連れて行った。この夏、大映はガメラ・シリーズの一旦の最終作『ガメラ対ジグラ』を、東宝は『ゴジラ対ヘドラ』を公開した。僕は先に『ガメラ対ジグラ』を観て、その絵を家に帰ってすぐ描くほどにはジグラに入れ込んだ。

『ガメラ対深海怪獣ジグラ』

 次の週には『ゴジラ対ヘドラ』を観たが、これには正直なところ困惑した。今ではヘドラは大人気怪獣だが、リアルタイムで観たヘドラは目玉がふたつ縦に並び、形もグニョグニョしていて、ジグラほどかっこいいとは思えなかった。ゴジラとヘドラの最初の戦いで麻雀をしていたサラリーマンたちが窓を破って飛び込んできたヘドラの破片に塗れて死んでいるシーン、主人公の少年が道を走っていると白骨化したヘドラの犠牲者の死体が転がっているシーン、最終決戦で穴に落ちたゴジラにヘドラがゲロのようにヘドロをかけて埋めてしまおうとするシーンが恐ろしく、『決戦!南海の大怪獣』を凌ぐ映画を観た(ただしヘドラのことを絵にするほどには入れ込まなかった。形がグニョグニョしているうえに、決戦は夜だったので全身を把握できなかった)実感に襲われた。後に『映画秘宝』を始め、町山智浩さんや切通理作さんが『ゴジラ対ヘドラ』を高く評価するので、わずか数歳の年齢差でも観ているところは違うんだなと思った。
 連続して怪獣映画を2つ観て、深夜までテレビを見て、高崎の夏は過ぎていった。やることがなくなって、団地の敷地の外へ出ようとすると、出入り口のところにおばさんが3人くらい見張りに立っていて、「いま人さらいがいるから家に帰りなさい」と強い口調で言われた。ちょうど大久保清が犯行を自白し始めた頃なのだろう。たくさんの女性が姿を消したから、他にも人さらいがいるのではないかという不審な空気が高崎を覆っていた。
 11月に入り父は論文を書き上げたようだった。そこでドタバタと引っ越しの準備に入り、横浜に帰った。幼稚園のクリスマス会でキリストの生誕劇があり、僕は宿屋の丁稚役(けっこう長いセリフがあった)だったが舞台に出ることはなく、故郷の横浜に戻ることになった。
「年長組もあと少しだから、改めて幼稚園に入り直すこともない」と母は考えた。そこで小学校の入学式まで僕は家で寝込んでいた。当時の横浜は空気も悪く、季節も冬に入ったタイミングで喘息が出たのだ。年が改まって1972年、僕は寝床の中から浅間山荘での連合赤軍対機動隊の実況中継を見ていた。その後、連合赤軍は榛名山のアジトで同志の大量殺人を犯していることが明らかになる。そのニュースを見て母親は「榛名山は高崎の団地の窓から見えた山よ:と教えてくれた。僕は団地の出入り口で見張をしていたおばさんたは人さらいに加えて過激派が近くまで来ていたことを察したのだろうかとぼんやり思い返した。
 僕にとって高崎市は物騒なイメージが付きまとっていた。そんなことを高崎市出身の映画監督・村上賢司さん(通称ムラケン)に話したことがある。試写で一緒になり、コーヒーでも飲んで帰ろうと、喫茶店に入り、ああだこうだと話した末に父が原研に出向で勤めていたと話したのだった。その話を聞いてムラケンは神妙な顔になった。
「あそこ、俺も知ってますよ。夜になると原研の敷地から緑色の光が漏れるんです。あそこは中曽根康弘の肝入りで作られたから、地元の連中は警戒していたんです」
 ほんまかいなと思いつつ、やはり昭和46年の群馬・高崎はただごとじゃ済まないものがあったんだなと思った。

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