現役教師が考える「自由と責任」

教師になってから早くも10年くらいになる。
新人だった頃の10年前はまだ昭和の価値観を持った先生が職場にいて、仕事終わりの飲み会の席で昔話をよく聞いていた。

特に印象的だったのは「金八世代」の荒れた学校での警察沙汰などの武勇伝だ。当時は校内暴力が大変だった時代らしく、定年間近のその大変な時代に主力だった先生は「いかつい」先生が多かった印象だ。

その荒れた先生たちが言っていた大切なことは、集団の統率力と管理力の大切さだった。
そこでいう統率力や管理力を発揮する上で大切なことは、教師が言うことがブレないこと。言ったことは生徒に守らせること、だった。

それを重視すると、言いつけを守らない(守れない)生徒には厳しい指導を行うことになる。

ただ、そのやり方の弊害として反発してくる生徒が出てくるということ。

だから、誠意との不満を解消するために、その生徒にいい思いをしてもらう機会を意図的に作っていた。それが、その反発する生徒をリーダー的な役割に就かせて、他の生徒の上に立つような立場を経験させていた。

先生と生徒の関係だけではなく、生徒同士の力関係を把握しながらクラスや学年を運営していく方法は、まさしく統率力や管理力につながる。
また、教師にとっても自分の言ったことには責任を取らなければならない。なぜならば、教師の言ったことを守らせることで統率する方法であるから、下手な指示を出して生徒にそっぽを向かれてしまった場合は、クラス運営が非常にやりづらくなってしまうのだ。

もちろん、この方法の負の側面としては、言ったことをやらない(やれない)生徒に対して、厳しく当たることだろう。場合によっては体罰という形で表出してしまうこともあった。また、生徒は教師の言う事をただ聞いていれば良いと思い、指示待ち人間を量産することになりかねない。

そのような反省もあり、現在では学校現場では体罰は禁止されているし、生徒の主体性を大事にするような教育の方向性である。

それに伴い、表面上はやさしい先生が増えたと思う。

生徒に対して厳しいことを言うと、保護者がでてきてクレームを言ってきて大変なことになる可能性が昔に比べると格段に増えていることが背景にある。

その結果、生徒が社会通念上望ましくない行動をしていても、見逃してしまうことになりかねない。もちろん、暴力などの重大事案を見逃すことはあり得ないが、多少のことであれば注意しなくなっているのではないだろうか。

その注意しないで見逃すことは優しさと言えるのだろうか?

もちろん、そんな訳はない。その裏には無責任という言葉が透けて見えるし、将来その生徒が困っても「自己責任」という言葉で突き放すことになってしまうのではないだろうか?

厳しいことを言ってくれる大人がいない中で育つ子どもたちに、今求められているのは自分を律することができる力である。

もし自分をコントロールできなければ、学校をドロップアウトするしかない。ある生徒は非行により、ある生徒は成績不振で、または不登校で。

昭和の方法での管理方法によって、厳しく指導されてきたことによって、横並びで救われていた層が、今はごっそり救われなくなっている可能性がある。
実際に、学校に行けない不登校の数は過去最高を更新してしまった。
もちろんコロナ禍による外的要因はあるだろうが、それ以外にも厳しいことをいってくれる大人が著しく減少していることも大きいだろう。

これからの時代は逆に昭和の時代にうっとうしがられていた「厳しい人」の希少性が高まっている。
なぜならば、厳しいことを言うと訴えられるリスクが高まるからだ。

厳しく言っても問題にならないのは、それだけ相手との信頼関係ができている場合や、愛を持って接することができている場合に限定される。

それほどの熱意や力量を持ったひとが教師になってくれるのが望ましいが、残念ながら教員志望者は年々減り続けている。
それは、教師の仕事が「コスパに合わない」と社会に認識され始めているからだろう。

厳しい指導を受けずに自分をコントロールできなくなった子どもたちの行く末は?
そして、自分を律する生徒たちを育てるにはどうすれば?

教育の悩みは尽きない。

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