小説 あなたを見ている人

「合わないのかも知れませんね」
臨床心理士は、のんびりと言った。
「でも、この職場はもう3箇所目なんです。
最初は生命保険会社、次が損害保険会社、
今の保険代理店です。
私、33歳で結婚の予定はありません。
これからの事を考えると転職はしない方がいいと
思うんです。あんまり転職の回数が多いと
変な目で見られますよね」
クライアントの女性は泣きそうな顔で話す。
窓の外はすっかり日が暮れている。
「いい人もいるんです。
給湯室のペーパータオルを補給したら、
ちゃんとお礼を言ってくれる人とか」
職場の人間関係に悩む女性。
職場の人と合わない。
これは立派な退職理由
になるのだが、それを受け入れられない人は
一定数いる。
好きな人に告白して、断られているのに
好きだと言い続けたら、好きになってもらえると
信じているようだ。
いい人もいるから頑張らなきゃ、と彼女は言う。
いい人。
厄介な存在だ。
全員が悪人なら、キッパリ辞める決心もつくのに。
肩を振るわせ泣き出したクライアントの顔を
覗き込むように心理士は言う。
「あなたは自分に合わない人もいる職場で
頑張ってきた。
そんなあなたを応援する人もいる。
見ている人は見ている。
本当に良い人よね。
でも、そんな良い人なら、
人間関係で四苦八苦している
あなたに『これからも我慢して職場に居続けてね』
とは言わないんじゃない?寧ろ逆。
『あなたなら大丈夫だから、
安心して次の場所に行きなさい』って
言ってくれると思う」
彼女は顔を上げた。
涙で濡れた顔で心理士を見つめる。
「自信を持つのよ」
彼女の口角が少しだけ上がったようだった。
(終わり)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?