小説 懇親会ブルース

「来週の土曜日は懇親会やるんだけど、
久美ちゃん来れる?」
楽譜を片付けながら、
講師の小林正美が聞いてきた。
「懇親会ですか?」
「毎年この時期になってるんだけど、
生徒さんとか生徒さんの友達が
集まるパーティーなの。
場所はここで、食べ物は持ち寄り」
「はい。行きます」と久美は即答した。
なんか楽しそうだなあ。と思った。
「食べ物はどんなものを
持っていけばいいですか?」
久美の質問に、
正美は「なんでもいいの」とだけ答えた。
3か月前から久美は
フラワーミュージックスクールに通っている。
週1回のヴォイストレーニングや
ヴォーカルレッスンを受けているのだ。
別にプロを目指しているわけではないが、
好きな歌をできるだけ素敵に歌うことが
目的だった。
フラワーミュージックスクールは小林正美が
1人で講師、事務を行っている。
彼女はスクール近くのライブハウスに
レギュラーで出演しており、
生徒と共演することもある。
久美はあまり人付き合いは得意ではないが、
懇親会は楽しみだった。
正美は「なんでもいい」と言っていた
持ち込みの食べ物は、
個包装のサンドイッチにした。
懇親会当日、
久美はテーブルセッティングを手伝った。
参加者が持ち寄った食べ物をテーブルに並べる。
紙皿や紙コップを並べている時だった。
ペリッと嫌な音がした。
それは個包装の袋を開ける音。
久美は音の方を向くと、木内さんと呼ばれていた
50代くらいの女性が久美が持参した個包装の
サンドイッチの封を開けて
皿に並べているところだった。
「すいません。それはそのままでいいんです。
持ち帰りもできるように」と
久美はやんわり木内さんに伝えた。
「でも食べづらいでしょ」と言った木内さんは、
個包装のサンドイッチを
全部開封してしまったばかりか、
空になった袋の山をテーブルに放置したまま、
どこかへ行ってしまった。
久美は懇親会に参加したことを少し後悔した。
「かんぱーい」と正美が歌うように叫んだ。
みんながそれに続く。
参加者が持ち込んだ食べ物が並ぶ。
久美がシュウマイを取ろうとした時だった。
古川さんという美しいストレートヘアの女性が
シュウマイ一つ一つにカラシを乗せていた。
久美はカラシが苦手で、シュウマイには醤油だけを
つけて食べる。
「古川さん有難う。気が利くねえ」と
黒田さんという男性が声を掛けた。
「この方が食べやすいですよね」と
古川さんが笑顔で返す。
やめてよ、と久美は心の中で呟いた。
シュウマイを食べる事は諦めた。
色々と驚くことはあったけれど、
懇親会が終盤に差し掛かり、
そろそろ満腹になる頃だった。
「遅れてすいません」と中年女性が
勢いよくドアを開けた。
「作ってたら遅くなっちゃって」と言うと、
手にした大きい紙袋から大きなタッパーを
2個出した。
「どうぞ」と蓋を開けるとそこには
大量の肉じゃがと大きなおにぎりが
敷き詰められていた。
「涼子さん有難うございます!」と
正美が抱きついた。
涼子と呼ばれた女性は、
ヴォーカルスクールの生徒ではなく、
正美が出演するライブハウスの従業員だった。
せっかくだけど、お腹いっぱいだな、
と久美は思った。
他の参加者も同じようで
肉じゃがとおにぎりを見つめていた。
「ほら食べて」と涼子さんが久美に
おにぎりを差し出す。
断るのも悪いので久美はおにぎりを食べる。
久美の他に若い男性参加者もおにぎりを
無表情で頬張っている。
苦しい、久美のお腹は限界だった。
「どうぞ」と涼子さんは笑顔で肉じゃがと
おにぎりを参加者に渡している。
手に持っている紙皿は肉じゃがの汁で
フニャフニャになり、
肉じゃがが零れ落ちそうになる。
テーブルの空いている部分に紙皿を置いて
ホッとした時だった。
「はい!どうぞ」と目の前に
おにぎりが差し出された。
木内さんだった。
久美が持参した個包装のサンドイッチをわざわざ
全部開封した人だ。
「若いんだから食べられるでしょ」と
久美におにぎりを
押し付けて木内さんは去って行った。
「肉じゃがって自分じゃ作りませんからね。
うれしいです」とシュウマイ全部にカラシを
乗せた古川さんが笑顔で言う。
うれしい、と言いながら古川さんは肉じゃがを
一口も食べていない。
「家庭料理っていいよね」と黒田さんも続く。
いいよね、と言っているくせに黒田さんは肉じゃがもおにぎりも食べていない。
「本当、涼子さん有難うございます」と正美が
気持ち悪いほどの笑顔で伝える。
「そんなに言って頂けて母はうれしいです」と
涼子さんはお辞儀をした。
「涼子さんも召し上げって下さい」と
久美は肉じゃがを紙皿によそい、差し出した。
「私はいいの。作っているうちに
お腹いっぱいになっちゃうの」と
涼子は紙皿を押し返した。
食えよ。責任持って。アンタが作ったんでしょ。
久美は心の中で叫んだ。
懇親会の場は既にグダグダで、そろそろ
「宴もたけなわではございますが」と言って欲しいのだが、肝心の主催者である正美が生徒と
話し込んでいる。
本来ならば片づけもしなければならないの
だろうが、久美は帰る事にした。
「申し訳なんですけど、失礼させて頂きます」と
久美は正美と他の参加者に伝え、
ドアを開けた時だった。
肩を叩かれて振り返ると、
涼子さんが久美に紙袋を差し出していた。
「タッパーを返すのはいつでもいいから」と
笑顔だった。
紙袋の中身は大量に残っていた
肉じゃがとおにぎり。
今の気持ちにピッタリな歌は何だろう?と久美は
考えたが、思いつかなかった。
(終わり)

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