小説 職場物語 透明人間が見える時

 「三島さん、浦野様からお電話です」
 三島さんって誰だろう?と思いながら、
 私はフロアに声を掛けた。
 痩せた中年男性が「知らない」とだけ
 言った。あの人が三島さんなのか。
 と思ったと同時にパニックになった。
 確か、三島さんと言ったはず。
 聞き間違い?
 もう一度確認しよう。
 「お恐れ入ります。浦野様ですよね。
 三島におつなぎ致します」
 受話器の向こうから苛立ちが伝わってくる。
「三島さんあてに浦野様からお電話です」
 私はもう一度言った。
「だから俺は知らないって」
 三島から返ってきた言葉だった。
 どうしよう?隣の榎本課長を見る。
 今のやり取りが全く聞こえなかったように
 パソコン画面を見ている。
 受話器を握りしめ、私は絶望的になった。
「三島さん、電話出て下さいよ。
 橋本さん困ってるでしょ」
 ちょっときつめの美しい人が三島に
 きつめに言う。
「だって俺知らないって。浦野さんなんて人」
「とりあえず電話出て下さい」
 と、ほぼ命令口調になった。
 三島はふてくされて電話に出た。
「ああー。高島産業の浦野さんでしたか!
 お久しぶりです」と今までとは打って変わって
 明るい声となった。
 企業名も言ってよ、と私は思ったけれど、
 一件落着。良かった。
 私はきつめの美しい人を見た。
 彼女は何事もなかったように書類を
 作成していた。
 私の名前は橋本美知佳。43歳。
 娘が小学4年生になるのを機に会社勤めを
 することにした。
 派遣会社に登録し、
 紹介されたのがここ鈴内商事。
 今日が勤務初日。
 勤務を始めてから1時間しか経っていないのに
 初めて社外の電話に出た時の出来事。
 私の仕事内容は電話の取り継ぎ、
 郵便仕分け等のいわゆる雑用だ。
 難しい事はないと思ったけれど、今みたいに
 電話を取り次いでも出てもらえない事があったら
 どうしよう?
 私は既に不安になった。
 「さっきは有難うございました」
 昼休み、私は美しい人にお礼を言った。
 彼女は「え?」と驚いたように私を見つめた。
 「三島さんの電話の時に助けて頂いて」と
 伝えると、ああ、と大して興味なさそうに
 呟いた。
 彼女の名前は西城亜里沙。
 話しかけづらいけれど私は好きになった。
 「橋本さん、ちょっと来て」
 直属の上司である榎本課長に声を
 掛けられたのは、勤めてから一週間経った日の
 ことだ。
 ただならぬ雰囲気。
 私は恐る恐るついていった。
 「昨日、郵便物一式渡してくれたけど
 中身見てる?」
 会議室に入った榎本課長はかなり怒っていた。
 中身の確認?郵便は榎本課長に渡すようにしか
 言われていない。
 私は何をやったの?なんで怒ってるの?
 「昨日の郵便物の中にヒラカワに割引クーポン
 が入ったたんだよ。気づかなかった?」
 「ヒラカワ?」
 「あのさ。仕事っていうのは、
 言われた事だけやってれば
 いいんじゃないの。
 郵便の中にクーポン券が入ってたら、
 お使いになりますか?って聞くの。普通。 
 そこまでやって初めて仕事したことに
 なるんだよ」と一気に捲し立てた後、
 榎本は会議室は出て行った。
 一人残された私は状況が掴めなかった
 「ヒラカワってご存知ですか?」
 昼休みに私は西城亜里沙に恐る恐る尋ねた。
 「ヒラカワは郵便局の隣の定食屋ですよ。
 行きたいんですか?」と亜里沙はスマホの
 画面を見つめながら言った。
 私は榎本課長に言われたクーポン券の話をした。
 「バッカみたい。たまに近所のレストランとか
  居酒屋がクーポン券をポスティング 
  してくんですよね。前にいた社員の
  人はクーポン券チェックをよくしていて
  榎本課長に渡してたんですよ。
  だから、榎本課長はクーポン券がある事を
  教えてくれなかった事に腹を立ててるんです。
  くだらない。
  気にしないでいいですよ。
  そんなの仕事じゃないし」
  クーポンがあるかも教えないといけないんだ。
  私は憂鬱になった。 
  派遣会社にもう無理だと言おうかな?
  今のところ私が家計を支えているわけで
  はない。
  でも、せめて3か月は続けないと娘に
  示しがつかない。
  もう少しだけ頑張ってみよう。
  それから数日後の夕方4時だった。
  カタログが入った段ボールが一箱届いた。
 「明日でいいから倉庫に運んどいて」と
  榎本課長から指示を受けた。
  仕事は当日中に終わらせたかったから、
  今日持っていきます、 
  と言ったのだけれど、榎本は頑なに
  明日運ぶように、と返すだけだった。
  翌日、就業開始9時に倉庫へ段ボールを 
  運ぼうとした時だった。
 「橋本さん」と呼ばれて、 
  顔を上げると杉田琴美が顎で入口を指した。
  スーツ姿の若い男性が立っている。
  私が用件を聞きに行くと、佐藤部長と9時に
  アポイントがあるとのことだった。
 「佐藤部長、お約束のお客様がお見えです」と
  伝えると、すぐ行くから会議室に
  お通しするよう指示を受けた。
  言われた通りに会議室に案内し、
  私は台車で段ボールを倉庫に運んだ。
  トイレに行き、9時10分に自分の戻った
  時だった。
 「橋本さん」と鋭い声がした。
  顔を上げると杉田琴美が私を睨みつけていた。
 「お客様どうしたの?」と杉田琴美が詰め寄る。
 「会議室にお通ししました」と言うと、
 「それはわかってるんだけど、
  その後どうしたの?」
 「倉庫に行っていたので、わからないです」
 「あのね、仕事っていうのは言われた
  事だけをやってたんじゃ
  ダメなの。どう言えばわかってくれるの?」
  と杉田琴美は
  怒りに肩を震わせながら言った。
  私が何をしたんだろう?どうしたの?
  職場は静まり返っている。どうしよう?
  その時だった。
 「別に橋本さんは悪くないですよね」
  と声がした。
  西城亜里沙だった。
 「は?あたし、迷惑かけられたんだけど」
  と杉田琴美は言い返す。
  迷惑?私が?私は何したの?
 「大した事じゃないでしょ」と西城亜里沙。
  どうしよう。私のせいで2人が喧嘩している。
  心臓を掴まれたようだった。
 「宅急便でーす」と元気のよい若者の声がした。
  私は荷物を取りに行くと同時に、
  電話が鳴った。
  社内は通常に戻った。
  私は救われた。
 「橋本さんがお客さんを会議室に案内した後、
  佐藤部長が会議室に行こうとしたら、隣の
  購買部の部長が来て、何やら2人で話し込んで
  たんです。5分くらい。
  ただお客さんは待てなかったみたいで、
  佐藤部長はまだか?って
  確認しに来たんです。
  その時にお客さんが声を掛けた人が
  杉田さんです。別にお客さんは怒っていた
  わけじゃないけど、彼女怒ったんです。
  もとから面倒な事はやりたがらない人
  だから。
  杉田さん曰く、会議室に案内した橋本さんが
  部長が遅れそうな気配を察知して、
  お客様に、少々遅れております,って
  伝えるべき。そこまでが仕事だって
  騒ぎ出したんです」
  会社の帰り道、亜里沙に呼び止められた私は
  近くの公園のベンチに座って事の顛末を
  知った。
 「私、お客さんを会議室に通した後、 
  倉庫に行ってたんです。
  本当は昨日行くつもりだったんですど」
  と言うのが精一杯だった。
 「それって3時過ぎてたんですか?
  うちの会社の倉庫は朝9時から3時迄は
  開いてるんですけど、
  それ以降は鍵がかかるんです。
  鍵を借りるには申請が必要で、
  榎本課長は申請が面倒だから明日
  でいいって言ったんですよ」
  遠くを見ながら亜里沙が言う。
  小さな不幸が重なったんだ。
  昨日、榎本課長が億劫がらずに
  倉庫の鍵を借りてくれていたら、
  昨日中に倉庫に荷物を置きに行けたのに。
  そうしたら杉田琴美に怒鳴られる事も
  なかったかも知れない。
  私は泣きたくなった。
 「実は前にすごく気の利くって評判の契約社員の
  人がいたんです。
      私は別にそこまでしなくてもいいんじゃない、
  って思ってたけど。
  なんでもやってあげるお母さんみたいな 
  存在だった。
  でも、そのうち営業マンの仕事の進め方迄
  口を出すようになったんです。
  書類の揃え方、スケジュール調整、
  クレーム対応も。
  別に間違ってはいないんですけど、
  面目を潰された営業マン達が
  怒って、彼女が妊娠したのをきっかけに
  色々こじつけて会社を辞めさせたんです。
  そうしたら雑用をしてくれる人が
  いなくなって。
  みんな雑用はしたくないから
  派遣社員を雇う事にしたんです。
  自分勝手ですよね。
  橋本さんの前にも派遣社員が何人かいたけど
  雑用の要求レベルが高すぎて、
  みんな辞めるんです。
  言われたことだけやっててもダメだって
  言われて、どうしていいかわからないって」
  そうだったんだ。私は少し安心した。
 「私は来月一杯で会社辞めます。
  明日から有休消化。今日が最後です」
  亜里沙は少しだけ声を大きくして言った。
  何かを宣言するように。
  私は驚いた。そんな事聞いていない。
  派遣社員にいちいち言わないのだろうけど、
  ショックだった。
  私は明日からどうすればいいの?
  でも同時に納得した。
  もう退職するから、あんなに周りの社員に
  立てついて私を守ってくれたのだ。
  怖いものがないのだから。
 「橋本さん。悪い事言いません。
  他に良い職場はたくさんありますよ。
  派遣会社に連絡して、新しい職場を
  見つけるべきです。
  あの会社でどれだけ頑張って気を遣っても
  榎本課長達にとって派遣社員は透明人間です。
  透明人間が見えるのは、自分の思うように
  やってくれなかった時だけ。
  文句を言う時だけです。
  また顎で使われたいですか?
  困っている人がいるのに平気で知らん顔する
  人達です。新しい職場ならきっとありますよ」
  私は泣いていた。
  涙と鼻水が止まらなかった。 
 「お互い元気で頑張りましょうね。
  有難うございました」
  頭上から亜里沙の声が聞こえた。
  見上げると、私に背を向けて
  彼女は歩き出していた。
  ハイヒールを履いた後姿はモデルのように
  美しかった。
  私は悲しくて悔しかったんだ。
  あんな扱いは2度とされたくない。
  あの会社はやめよう、そう思った。
  教えてくれた亜里沙にお礼を
  言いたかった。
  職場でただ1人、私を庇ってくれた美しい人。
  私を助けてくれた人。
  有難う、有難う。何度も呟いた。
  彼女の背中はもう見えなかった。
  
 
  
  
  

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