小説 最高の誉め言葉

復帰したくない。
これが坂本奈津子の本心だった。
彼女は妊娠19週目で長男を死産した。
12週以降の流産、死産は産休の対象となる。
奈津子は産休を取ったが、復帰は1週間後だ。
死産のことは職場の人は知っている。
「残念だったね」
「まだ若いんだから」
「実は私の友達も死産だった」
職場復帰初日。
励ましの言葉をたくさんかけてもらった。
有難い。有難い。有難い。
奈津子は自分に言い聞かせた。
励ましの言葉ならまだいいのだけど、
産休を取ったとしか知らない取引先の人から
「おめでとう」と声を掛けられるのがつらかった。
死産である事を知っている人が
目くばせをしているのがわかる。
あの子と一緒に行っていればこんなことに
はならなかったのに。
「坂本さん」と呼ばれてて奈津子は我に返った。
奈津子の隣に山本優子が立っていた。
「鈴内商事の見積をお願いします」
それだけ言うと山本優子はその場を去った。
職場復帰後、優子と初めて交わした会話だった。
「よし。やるか」
久しぶりに仕事モードになった奈津子は、
優子に背中に向かって、そっと微笑んだ。

「ひとりっ子だから、
そんなにマイペースなんだね」
会社の先輩の赤川聡子がビールを
片手に頷いていた。
「ええ。まあ」大島紀子は苦笑した。
大島紀子はひとりっ子だ。
正しく言うと、ひとりっ子になったのだ。
2年前に兄を集団暴行で殺されたから。
でもそんなことは言えない。
私は産まれた時からひとりっ子。
会社の楽しい飲みの席で集団暴行の話
なんてできるわけがない。
「山本さん、大島さんってひとりっ子なんだって」と赤川聡子が山本優子に教えた。
「だから何?」
何杯目かのハイボールを飲みながら
山本優子は素っ気なく言った。
「別に」
赤川聡子はイラっとして、
隣のテーブルに行ってしまった。
紀子は優子に向かって、そっと頭を下げた。

「どうするの?これから」
比留間妙子は深刻な顔をして言った。
「そうですねぇ」
「なにを悠長なこと言ってるの?」
比留間妙子は声を荒げた。
わかってる。わかってるってば。
石井尚子は唇を噛んだ。
尚子の一人娘は小学5年の2学期から
不登校となり、その後一度も登校しないまま
卒業を迎えた。
不登校の事は一部の親しい社員に
しか話していないが、甘かった。
職場内で一番うるさい比留間妙子に
知られてしまったのだ。
妙子は何かと
「娘さん学校行けた?」と尋ねてくる。
それも昼休みに皆に聞こえるような大声で。
「石井さん、総務の卒業証書持っていけば
卒業祝い金もらえますよ」
ぶっきらぼうな声がして振り返ると、
山本優子が立っていた。
「不登校の子供に卒業祝いなんてある
わけないでしょうが!」
優子に向かって妙子が噛みつく。
「不登校かどうかは知りませんけど、
卒業は卒業ですし権利ですから」
そう言うと優子は自席に戻った。
「何よ」と妙子の不機嫌な声がした。
尚子は嬉しかった。
こんな気持ちになったのは久しぶりだ。
尚子は優子に向かって、有難う、と小さく呟いた。

「竹内さん、娘さんどうですか?」
山科朱美がニンマリとしながら言った。
「もう生理あるんですか?」
竹田由紀が質問すると
「イヤだー」と他の女子社員達が笑った。
竹内聡はシングルファザーで一人娘を育てている。
最近、そのことが女子社員達のいじりの対象になっているのだ。
「ナプキンよりタンポンの方がいいですよ」
「やめなよ」
女子の事をわからないシングルファザーへの
アドバイスだと言っているが、どう考えても戸惑う竹内を見て楽しんでいる。
他の男性社員達も止めに入らず、
竹内がいじられるのを黙って見ていた。
「竹内さん。
鈴内商事のデータを早く出して下さい」と
低い声がした。山本優子だ。
「助かった」竹内は優子に感謝した。
これで仕事に戻れる。
「山本さんって本当に人に興味ないよね。
冷たい。めっちゃ」
竹内をいじる事を中断された山科朱美が
憎々しげに言う。
パソコンを打つ優子の手が止まった。
朱美をはじめとする女子社員達が身構える。
他の社員達も息をのんだ。
「それ最高の誉め言葉」
優子が珍しく微笑みながら、嬉しそうに言った。
誰も何も言えなかった。
優子の手が再び動き出した。
固まっていた社員達も動き出した。
優子の横顔に向かって、竹内の唇が
「有難う」と動いたことを優子は知らなかった。
彼女は人に興味がない。
(終わり)









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