小説 職場物語:仕事の天才

私は高橋亜由美 30歳
企業系保険代理店に勤務している。
3か月前から私の部署で時差出勤が始まった。
時差出勤のパターンは3つ。
朝8時から午後4時迄
朝9時から午後5時迄
朝10から午後6時迄。
私は朝9時組になった。
朝8時スタートも魅力的だったが、
希望者が多く、通常組が少なくなる為だ。
時差出勤が始まった時から気に
なっていた事が2つある。
1つは時差ボケ。
午前8時50分 出社
デスクを拭き、
パソコンに電源を入れようとした時だった。
「高橋さん。この書類なんだけど」と
川崎課長がやって来た。
「先方からのメール見た?」
「私の勤務時間は9時からなんですけど」
「あ、ごめんね」と課長は自席に戻った。
川崎課長は朝8時始業組だ。
自分の勤務時間はみんなも勤務時間中と
思っている。
これはしっかり教育しなければならない。
9時になった。
「課長。なんでしょうか」
私は川崎課長の席に向かった。
午後3時55分
「南さん。この見積を作ってほしいんだけど」
近藤部長が私の隣の席の南さんに声を掛けた。
「南さんは時差出勤で4時迄なんで私が代わりに
 見積書を作ります」と私は近藤に申し出た。
「いや。これは南さんじゃないと」と
近藤部長は口ごもる。
怪しい。私は部長から書類をふんだくった。
「こんなんじゃ見積なんて作れないですよ。
チェックシートがないです。
そしてこの契約日なんて無理です。
見積は作りますけど、必要な書類が全然無い
ですよ。ちゃんと書類を全部揃えてから
見積依頼して下さい」と部長に書類を突き返した。
有難うございます、と南さんが消え入りそうな声で
私に言ったけれど、聞こえないふりをした。
「お先に失礼します」と4時に南さんは退社した。
近藤部長がこの時間に南さんに仕事を依頼した理由の見当はつく。
南さんは気弱で大雑把な人だから、
退社時間が迫っている頃に仕事を
頼めば面倒になって
「ああ。じゃあ明日やりますね」と引き受ける事を
期待しているのだ。
面倒な書類集めは南さんが代わりにやる事になる。
本当に楽をすることしか考えていない。
午後4時10分。電話が鳴った。
「15分くらい前に携帯に着信があったんですけど、
 どなたでしょうか?」
「少々お待ちください」と電話を保留にし、
私はフロア全体に聞こえるように
「15分ほど前に鈴内商事の岡本さんにお電話した方
 今、岡本さんからお電話です」と呼び掛けた。
「ああ、それは川崎課長。電話してた」と
高津さんが教えてくれた。
だが、当の川崎課長は午後4時退社組でもういない。
「申し訳ございません。お電話したのは
川崎のようですが、本日は失礼させて頂きました」
「何の用かな?電話すぐ切れちゃったんだよね」
いや、知らないわ。
「明日、川崎よりお電話差し上げます」
「この前の見積の件?」
だから知らないって。
「申し訳ございませんが、
明日お電話差し上げます」と
伝え、なんとか電話を切った。
4時10分の15分前って3時55分。
なんで、あと5分で退社するのにお客さんに
電話するの?
鈴内商事の岡本さんの見積の件?
あの件かな?
もしや、川崎課長は岡本さんと話すつもり
は全くなかったのではないか?
先方が電話に出ないように速攻で
電話を切り、自分は定時の4時で退社。
着信履歴を見て折り返しの電話に
たまたま出た人に対応してもらうつもり
だったのでは?
自分の仕事を他人にやらせる天才の
川崎課長ならやりかねない。
4時15分にまた電話が鳴った。
「鈴木さんはいらっしゃいますか?」
「申し訳ございません。鈴木は時差出勤の為、
 本日は失礼させて頂きました」
「そうですか。じゃ代わりにちょっと教えて
 頂きたいんですけど」
「少々お待ち下さい」
「近藤部長 鈴木さんのお客様から
 問い合わせです。鈴木さんは退社したと
 言ったら、じゃあ代わりに教えて下さい、
 と言われました」
「いや、でも僕でわかるかな?」
「営業の件ですからね。私は事務なんで
 全くわからないんで」と有無を言わさず、
近藤部長に電話を繋いだ。
時差出勤が始まった時からのもう1つの不満は
電話だ。
我が社の電話受付時間は朝9時から午後5時。
8時と10時スタートの人達は電話対応を
しなくていい時間があるのだ。
電話に出ずに仕事に集中出来る時間がある。
これは不公平だ。
なので電話受付時間は全社員が揃っている
午後4時迄にした方がよいのではないか?と
部長に直談判したが、駄目だった。
4時に退社した人宛に掛かってきた
電話には「明日、連絡します」と伝えれば良い、
と言うのが部長を含む上層部の考えだ。
でも電話を取る身として
「○○は本日は失礼させて頂きました。
 お急ぎでなければ明日お電話を差し上げます」と
伝えることはかなりのストレスだ。
「だったら、あなたでいいから教えて」と
なると他人の仕事まで抱える事になる。
それはお互い様だからよいとしても、
結局わからなかった場合、
「申し訳ございません。
 やはり当方ではわかりかねまして、
 明日、担当者からお電話致します」
 と伝えた途端、
「だったら初めからそう言えばいいのに」と
嫌味を言われる事の苦痛。
これは本当に何とかしてほしい事だ。
なので私は9時出社組と話し合い、
4時以降に4時退社組の営業担当に掛かってきた
電話は全て課長部長に回す事にした。
営業の事は事務員の私たちより詳しいのだから
無理な事ではない。
1か月後、電話受付時間が朝9時から午後4時迄となった。
みんな本当に楽をする天才だ。
(終わり)


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