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嫌いな人を見つけたら、その人の長所を探してみる。

「嫌いな人の長所を認めることができるか」
「嫌いな人を心から褒めることができるか」
これらにYESと答えられるかどうか。
酷い言い方ではあるが、私はそこで人をある程度量っているのかもしれない。




「何を言うか」より、「誰が言うか」



小中学生の頃の話。
私は「変なやつ」だった。

なんとなく振る舞いが独特。
言動のクセが鼻につく。
行動は自分本位で他者への配慮に欠ける。
そして何より空気が読めない。
ノリが悪い。

だいぶ輪を乱していたと思う。


子どもたちの子どもたちによる誰かのための小さな社会では、「何を言うか」よりも「誰が言うか」が重視された。

つまり仲間と判定された人の発言はどんなものでも概ね反応が良く、そうでない者が何を言ったって大抵は受け入れない。

まあ、文脈からして敢えて書く必要もないけれど、紛うことなく私は後者だった。


「何を言うか」よりも「誰が言うか」。
それを感じさせられるのは、何のとりとめもない日常生活の小さなシーンに潜んでいるものであり、言語化して説明するのも難しい。

自分の言動を、必ず彼らは認めない。
私が何を言おうと何をしようと、白けるし滑るし馬鹿にされて嘲笑われるだけ。
AさんやBくんが言ったら共感されるものと全く同じ言動をしたとしても。

普段はこちらが乗りそうもない変なノリを求めてきて困らせる。
けれど、いざ勇気を持って乗ってみると、「うわ、なんかのってきた」なんて、こちらを除いて仲間内で嗤う。


まあ、今ではそれを被害者面する気もないし、至極どうでもいい過去の話。


当時、幼かった私はあれらの全てを嫌がらせだと思った。

しかし今では、そこに悪意があったのかどうかはわからないと考えている。
いや、むしろなかったんじゃないかと思う。

みんなきっと無意識に、「こいつの言うことやることはおもしろくない」というフィルターを初めからかけた状態で、私の言動を受け取っていた。


同じ味でも、美味しそうに見える料理の方が美味しい。
最初から美味しくなさそうな料理は「美味しくないだろう」と食べる前に判断してしまう。

それは当然私も同じで、私だってそういう色眼鏡で人の言動を見ていたこともたくさんあったんだと思う。


だから、たぶん仕方ない。

ここまで「誰が言うか」の重視に傷ついた話をしてきたけれど、その致し方なさを想像できる現在の私は、そもそも「誰が言うか」に注目すること自体を悪と捉えているわけでもない。


ただまあ、「誰が言うか」に傷ついた経験のある者として、「共感と理解」「嫌いと苦手」そういったものを区別できる人間ではありたいと思っている。

プラスの印象とマイナスの印象。
「好き」「得意」「善い」「嫌い」「苦手」「醜い」「悪い」
よく見てみると、それぞれ全く違うものなのに、プラスなものは完全にプラスで、マイナスは完全なるマイナスでなくちゃいけないわけがない。

嫌いだけど上手にできること、失礼だけど実力がある人、好きだけど役には立たないこと。
そこに矛盾はない。

美しいけど他者に攻撃的で、とても賢いが努力はしない、頑固だけど動物や赤子に優しい。
そんな人だって、きっといる。


たぶんどこでも言われているけど、合理性と感性はどちらも必要で、論理的か感情的かの二元論でモノや個人の性質を言い表そうなんてナンセンスの極み。

感情を無視した合理性などもはや合理性ではないし、一歳の論理を聞き入れず全て一個人の感情だけで走り散らかす狂ったマシンに最適解は知り得ない。

だから、人に対する好き嫌いだけでその人の言動の評価の高低を決めるなんて乱暴すぎる。
かといって、人に対して好き嫌いが生じるのは当然で、否定されるべき話ではない。


どんな人間にも優れたところはあるもの。

どれだけ認めたくなくても、あなたが嫌いなあの人も長所を持っていることは事実。
どんなにいい人だってたまには良くないことをするかもしれないし、どんなに嫌な人でも賞賛すべき行為をすることがある。

人が気に入らないから、必ず悪く評価する。
他の言い方もできるのに、わざわざ否定的な言葉を選ぶ。

本当は、言動の良し悪しはその内容があって初めて評価されるべきなのに、その人の好き嫌いで先に行き着くべき結論が作られ、それに合うように評価をする。

原因と結果の逆転も甚だしい。


だから私は、どんなに嫌な人であっても良いところは認めよう、と思った。

そうして暮らしていると、そもそも嫌いな人自体が少なくなった、という思わぬ副産物もあったのでこの考え方結構おすすめ。

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