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それを「大人」と呼ぶのならば私は



夏季休暇。

似たようなことの繰り返しから逸脱した生活では、特定の人と会う頻度が下がる。

すると、「久々に会う人」「ちょっとご無沙汰な人」が増えるのだ。



「元気?」

少しの間会ってなかった人と会ったとき、結構な高確率で訊かれる言葉。

「天気良いね」のような話題がない時専用のカードと同じにすることなかれ。
なんとこいつは明確な目的や他の話題がある時でさえもそれらを追い越して投げかけられるのだ。
「久しぶり、元気してる?」

とんでもなく抽象的で大して重要度が高いとも思えないテンプレ。
それでも「その人について自分が知らない期間」が一定の容量に達すると、会った時に「元気?」って言いたくなる。

どういうわけか、人はそういう魔法にかかっているらしい。



はっきり言おう。
私はたぶん、いや確実に元気じゃない。

本当は誰かに泣きつきたい。
だけど、そこまでしてもいいと思える相手などいない。

側から見えない。
見せたいとも思わない。
けれど、ないことにもできない。
そういう災いを抱えている。

正直生きているだけ褒められていい。
誰も私もその程度はわからないけれど、確実に私は「元気」ではない。



元気ではない人間に対しても、「元気?」は何の悪意もなく襲いかかってくる。
当たり前、元気かどうかを知るために「元気?」って訊いているはずだ、文脈としては。

ただ、「元気?」って聞かれたら「元気だよ」って答えるものだと相場が決まっている。
しかしながら最近の私は「ぼちぼち元気です」と答えてしまう。

だって元気じゃないんだもの。
別にその場で相手に相談するつもりなんてないし、むしろこちらの事情に踏み込まれるなんてお断りだ。

ならば尚更、嘘でも元気だと言っておくのが賢いはず。
そんなことはわかっている。

それでも全く元気じゃないものを「元気」って平然と応答するのは、そこはかとない苦痛が伴う。
もう、たぶんそういうもの。
空元気がより大きなストレスを呼ぶことも、相場で決まっている。



とりあえずの「元気?」に「ぼちぼちです」って返すと、大抵苦笑いで「そうか、ぼちぼちか」みたいな反応をされる。
おまけに「無理せず頑張ってね」って言ってくれる人もいる。

何の悪意もなく、多かれ少なかれ気にかけてくれていることはわかる。
だけどそのコミュニケーションは、やっぱりちょっと微妙な味がする。

だって、元気か訊かれたら真偽に関わらず「元気」と答えるものだから。
それがきっと、大人のマナーなんだから。
社交辞令という名の。

相手は「元気だよ」って返されることしか想定していない。
「元気」以外の答えを望んでいない。
ならば、自分の状態がどうであれ、「元気」と返すのが当然。
自分よりも相手を優先して期待に応える、成熟した人間とはそういうもの。



ただ、元気でないものを「元気」と言うつらさを知っている人はどれだけいるのだろう。

「ただ『元気です』って言うだけだろう?」なんて話ではない。
「元気?」はいろんな人から投げかけられる。
訊く側は一度しか返事を聞かないが、訊かれる側は訊く側の知らないところでいろんな人に何度も何度も「元気だよ」という嘘を繰り返すのだ。
たったひとつの社交辞令、その裏には本当だったら「誰か」に泣きつきたい中、次々と知り合いに元気な自分を植え付け、頼れるかもしれなかった顔を減らしていく人の姿がある。

そんな大ごと。
何気ない「元気?」というありふれた問いが、相手にとって脅威になる可能性。
それを、一瞬でも想定したことがある人は、果たしてどれくらいいるのだろう。

当然、久々に会っていきなり言葉を交わす前からこちらが元気じゃないことを察してほしいなんて言わない。
「元気」という想定通りの返答じゃないことに怯まないでほしいなんて言わない。
この歳にもなって適切な建前が使えないでいるのは私だ。
たとえ常識を踏み違えたコミュニケーションで印象が悪くても、私が元気じゃないということ自体だけは軽蔑しないでもらえるとありがたい。




「元気?」と訊かれたら必ず「元気」と答える。
それを大人と呼ぶのだとしたら私は、あらゆる「大人の振る舞い」から逸れた人の背景を憂慮できる大人でいたい。







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