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自然を観ることは世界の解像度をあげるということ

この春、数種類の木の冬芽が芽吹き、葉が茂り、花をつけ、実がなる様子を日々見ていて、「ああ私はまったく世界を知らなかった」と思ったのだった。海外旅行に行っていろんなカルチャーに触れるのとも違う感動だし、農家・漁師の仕事に触れて社会の土台を考えるのともまた違う。日々の暮らしの足元に、それぞれの生き物なりのやり方やルールで営まれている世界があるという発見。MIB2のラストシーンでロッカーを開けた気分。かも。

ウスバシロチョウの羽化

ウスバシロチョウが羽を広げたところ。羽が透けるほど薄い


6/1-2で自然観察指導員講習会を受け、晴れて指導員として登録された。こんなことしてると、「自然が好きだったんだね」と言われそうだが、正直言って好きも嫌いもないくらい、自然に疎かった。自然の中にいるのは好きだったけれど。いまでも、木も全然覚えられないし、虫もまだ「好き!」の域には達してない。はっきりいって、ど素人だ。(えらそうなタイトルつけてみたけど)

だからあえて、「自然とか興味ない」人に伝えたい

山を見て、「こんもり緑の山」と思うか、「ブナとコナラとあと広葉樹が数種類」と思うかで、山の見え方はぜんぜん違うってこと。見分けがつく、認識できる、ということが、世界をこんなにも鮮やかに塗り替えるのかと思うくらい。

私自身がそうだったように「LOVE NATURE!」みたいなアウトドア派でなくても、自然を知る・知ろうとすると、世界が広がるんだってこと。

解像度が高い=入ってくる情報量が多い。
それはすなわち、自分の住んでる世界が豊かになるってことではなかろうか。

・・・

少し話が飛ぶ。

解像度は自然だけでなくて、田舎や地域にも当てはまると思う。
ある土地に行った時、畑で何が育っているか、山にどんな木が生えているかわからなければ、どの田舎も同じ山と畑と川に見えるだろう。「田舎はいらない」というスマートシティ構想や、「工場で作物を生産すればいい」という農業の工業化も、解像度の低い発想なのだなと思うようになった。社会を大きく動かそうとすると、解像度は低くせざるをえないのだろうか。

でも実は、良い未来にとって必要なのは、解像度をうんと高めてみることかもしれない。これはただの直感。


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