細川映三

2022.02.09に還暦を迎えた僕が、敬愛する夏目漱石・正岡子規・モーツァルトなど、…

細川映三

2022.02.09に還暦を迎えた僕が、敬愛する夏目漱石・正岡子規・モーツァルトなど、僕の目を通して見えてきた事などを綴っています。 自分自身、随筆を書いたりもしていますので、時々はそうしたものも載せて行きたいと思います。

最近の記事

漱石先生の『草枕』続き

夏目漱石と木瓜および拙の関係は、漱石が詠んだ俳句「木瓜咲くや漱石拙を守るべく」に表れています。 この句は、漱石が明治30年(1897年)に熊本で英語教師をしていた時に詠んだもので、自らの生き方を象徴しています。ここでの「拙を守る」とは、目先の利益に走らず、不器用でも誠実に生きることを意味し、漱石の理想とする生き方を示していると言われています。 また、『草枕』には、「世間には拙を守るという人がある。この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい」という一節があ

    • 漱石先生の『草枕』

      山路を登りながら、こう考えた。 智に働けば角が立つ。 情に棹させば流される。 意地を通せば窮屈だ。 とかくに人の世は住みにくい。 これは漱石先生の書いた『草枕』の冒頭部分で、多くの方が聞いた事がある出だしだと思います。 非常に印象的な書き出しですね。 漱石先生の『草枕』は、日露戦争の頃、30歳の画家が「非人情」を求めて旅をし、那古井温泉で出会った女性・那美との交流を描いた作品です。 画家は那美がいつも芝居をしていると分析し、彼女の美しさに魅了されます。 那美は出戻りで周

      • 破壊

        今日は星が綺麗だ。 この空は何処までも繋がっている。 然し、僕が幸せな思いで見上げているこの空であっても、何処かの国で今でも空から爆弾が降っている。 僕達は知っている筈なのに… 悪戯に争いをする事の無意味さを… しかし今日この日この時でさえ、爆弾の恐怖に心を震わせている人がどれだけいる事だろう。 寒さと飢えに涙する人がどれだけいる事だろう。 戦争は何の生産性もない事を… それでも闘う事をやめない意味が何なのかは僕には理解できない。 身を賭して…命を捨ててまでテロ行為をする

        • 僕の正直

          「そんな事君、書いた本人だって分りゃしないよ」 漱石先生が教鞭をとっていた際に、詰問する生徒に放った言葉である。 実際にそうした事はあるだろうと思う。 自分でも何故、あんな事を言ったのだろう? 何を思って、あんな事を書いたのだろう? と言う事は、ままある。 僕は自分の意識の外で、何か吐いてはいけない言葉を吐いていはしまいかを思うと、途端に不安になる。 寄り添いの気持ちを喚起して、他人と対峙したいと思いながら、自分の癇癪が顔をのぞかせ、他人を傷つけ自分ではのほほんととして

        漱石先生の『草枕』続き

          愚見数則

          夏目漱石『愚見数則』(現代語訳)  理事がやってきて「生徒のために何か書け」と言われた。私のこの頃の頭脳は乏しすぎて君たちに語ることなんかなんも無い。しかし「ぜひ書いてくれ」と頼まれたのだから仕方ない。何か書いてやるか。私はお世辞は嫌いだ。時々は気に入らない言葉もあるだろう。また、思い出した事をそのまま書いていくので、箇条書きのような文章となり少しも面白くならない。文章は飴細工みたいなものだ。延ばせばいくらでも延びる。その代わり、中身は薄くなる物だと知れ。  昔の学生は、

          愚見数則

          散文

          遊びの心 車を運転する人も多いだろうが、ハンドル、アクセルやブレーキにあそびがなかったら、車はとても運転しにくいだろう。 それは人の気持ちにも言える事で、ある程度の余裕、寛容さがなかったら、人生はとても苦しい道となってしまうだろう。 自分の気持ちをコントロールするにも、遊びと言う余裕がなかったら、緊張の連続で神経も随分と擦り減ってしまいはしないだろうか。 神経が擦り減れば、気持ちにブレーキをかけなければならない時に、ブレーキの効きも悪かろう。 と、同時に気持ちが暴走

          自然を愛でる

          細川映三 僕の敬愛する漱石先生の門下生の一人でもあり、物理学者で随筆家の寺田寅彦は、次の様な言葉を送られたという。 先生からはいろいろのものを教えられた。俳句の技巧を教わったというだけではなくて、自然の美しさを自分自身の目で発見することを教わった。同じようにまた、人間の心の中の真なるものと偽なるものとを見分け、そうして真なるものを愛し偽なるものを憎むべき事を教えられた。 僕は思う。ここでいう自然とは、森羅万象・山川草木の様な自然に限らず、対人物なのだということを・・・

          自然を愛でる

          漱石先生の命日に思いを馳せて

          疲れたなー 心も身体も… 今日12月9日は、敬愛する夏目漱石先生の命日だ。 先生の生きた時代と、僕の生きる時代、文化や文明は大きく異なるかも知れない。が、先生の予見した将来というものの中で、僕は生かされている…そんな気がしてならない。 地位も名誉も権力も忌み嫌った先生の如く、僕も、菫ほどに小さくてもいいので、自分を花咲かせたいと思い続けながら生きているが、自分の思いに金力が追いつかず、苦しい日常から脱却する事が出来ないでいる。 その要因を、自分ながらに分析してみると、僕

          漱石先生の命日に思いを馳せて

          因業爺

          僕も還暦を迎えて半年になった。 肉体の老化はどうする事も出来ないが、せめて精神的には若くありたいと願うものである。 自分がまだまだ若い時には、あんな大人にはなりたくないなぁと言う大人像があった。それは所謂因業爺である。頑なに自分に拘って、何物をも受け付けない・・・そうした自分を想像するだけでぞっとしたものである。 然し、今の若者からすれば、自分はそれ程しなやかで寛大な心を持った大人に映っているのだろうかと思うと、ふと不安になるのである。 自分の中にある失いたくない自分を持

          車輪

          小さな車輪と、大きな車輪があったとする。小さな車輪は動き始めから軽快に回転するだろう。それに比べて大きな車輪と言うのは、回転し始めるまでに大きな力を要する。が、回転し始めるとゆったり大きくスピードも備わって回転する。 この大きな車輪と小さな車輪のどちらかが良くてどちらかが悪いという比較の問題ではないのだが、人生においては、小さな車輪と大きな車輪の使い分けの判断が迫られることもあるだろう。 小さな車輪であれば、比較的容易に動かすことも出来、小回りも効くだろう。 それに対

          コマクサ(駒草)

          コマクサと言う、高山植物をご存じだろうか。 ほかの高山植物が生えることができないような稜線の砂礫地を好んで生える孤高の花で、高山植物の女王とも呼ばれている。この花を見る事を楽しみに山に登る方も多い。 草丈10cm程までに成長するコマクサだが、それまでには苦労を要する。 先にも述べたように、高山植物の女王の雄姿をカメラに収めたいという登山者は非常に多い。一歩でも花に近づきたいという衝動で、砂礫の中に足を踏み込む人が少なくない。踏み込まれた場所は窪みになって雨が降る

          コマクサ(駒草)

          高原に立つ

          孤高の登山家、加藤文太郎は「山は山を愛する人全てに、幸いを与えてくれる」と言った。 かつて僕は盛んに山に登った経験がある。僕の山登りは自分自身との対峙、自然との対峙にあったと思う。鳥のさえずりや可憐に花を咲かせる高山植物、自分自身に与えられた命を懸命に生きるそうした動植物の存在が、僕の心の琴線に触れるのだった。 眼下に眺望が開けた高原に立つのが好きだ。例えば、そこに自分の住む街を俯瞰したとしよう。普段自分が住む世間という世界の何と狭いことだろう…を感じた時に、僕の心の中に

          高原に立つ

          11年前、3.11直後の気仙沼市立階上中学校卒業式での、梶原君の答辞

          本日は未曽有の大震災の傷も癒えないさなか,私たちのために卒業式を挙行していただき,ありがとうございます。 ちょうど十日前の三月十二日。春を思わせる暖かな日でした。 私たちは,そのキラキラ光る日差しの中を,希望に胸を膨らませ,通い慣れたこの学舎を,五十七名揃って巣立つはずでした。 前日の十一日。一足早く渡された思い出のたくさん詰まったアルバムを開き,十数時間後の卒業式に思いを馳せた友もいたことでしょう。 「東日本大震災」と名付けられる天変地異が起こるとも知らずに…。 階上中

          11年前、3.11直後の気仙沼市立階上中学校卒業式での、梶原君の答辞

          富川さんの思い出  細川 映三

          風邪をひいても寝込むということがないくらい、頑強な富川さんが急逝した。 富川さんの長女から私の職場に連絡があったときにも、悪い冗談としか思えなかったが、富川さんの死は受け入れ難い悲しい現実だった。急いでお宅を訪ねると、広い屋敷の一番奥の座敷に白い布を顔に被った富川さんが静かに横たわっていた。既に温もりを失った富川さんを目の当たりにすると激しい嗚咽と共に涙が止めどもなく溢れた。 富川さんは造り酒屋を営んでいた。亡くなった当日も午前中は仕事に精を出していたそうである。昼食を済

          富川さんの思い出  細川 映三

          吾輩は、「吾輩は猫である」でかつて有名になった、猫である -序-

          吾輩は、「吾輩は猫である」でかつて有名になった、猫である。 多々良三平君のビールのおこぼれを頂戴し、歌が歌いたくなり、猫じゃ猫じゃが踊りたくなり、陶然とした心持で表に出たところ水甕に落ち、ありがたい気持ちのまま死んで太平を得ることを覚悟したあの猫である。 ところが吾輩は太平を得ることは出来なかったようである。ゆえに今こうして読書子諸君の前に再度登場と相成ったわけなのである。 いかなる技によって吾輩が百年の時を超えたか?などという愚問は、お願いするから投げかけないでほしい

          吾輩は、「吾輩は猫である」でかつて有名になった、猫である -序-

          サスケの死  細川 映三

          勤務先で飼っていた犬、サスケが死んだ。13年生きた犬で、犬の世界で言えば大往生といえるのかも知れないが、やはり悲しい。 今朝出勤すると、いつもの場所で横になったまま、苦しそうに下顎呼吸をしていた。閉じることの出来ない口からは涎が垂れて、いつもにも増して毛艶も失せているようだった。 頭を撫でてやると、精一杯の力を振り絞って立つのであるが、後ろ足は震えていた。顎の下を撫でてやると又体を横にして、僕の手に頭を擦りつけていた。涎は拭いてやっても後から後から湧いて出てきた。背中を

          サスケの死  細川 映三