ゲームバランス試論

「このゲームはバランスが悪い」

ボードゲームを遊んでいれば、こうした発言を何度か耳にしたことがあるのではないだろうか。あるいは自分で言ったことがあるかもしれない。もしかしら頻繁に使っているかも。かくいう私もしばしば言ってしまう。「このゲーム、バランス悪いよね」
ゲームバランスというのは便利な言葉だ。理想的な展開(がどのようなものかはさておき)に辿り着けなかった場合は、とりあえず「バランスが悪い」と言っておけば問題ない。システム側にまったく責任がないということは原理的にありえないので、「バランスが悪い」という批判は多かれ少なかれ妥当なものになる。ではしかしゲームバランスというのは一体何なのだろうか?ゲームのどこがどのようにバランスが悪いのか、明確に言語化できるだろうか?そしてそもそもバランスが悪いことは本当に良くないことなのだろうか?

はじめに

以下の文章は客観的な検証から積み重ねた考察ではなく、一つの視点からゲームバランスというものを見た主観的な記述にすぎない。試論と名乗るのもおこがましい。とはいえ、“ゲームバランス”というものを考える・議論する際の叩き台の一つになれば、あるいはそこまでいかずともなにかの参考になれば幸いである。
(また以下の文章は私個人の考えと一致しているわけでもない)

理想的なゲームバランスを考える

完璧にバランスの取れた理想的なゲームが仮に存在したとして。それはどんなゲームなのだろうか?

選択肢のバランス

一つの意思決定の場面でバランスが取れている(均衡している)ということはつまり与えられた選択肢のどれもが同等に勝利に貢献することを意味する。これは逆に言うとどの選択肢を選んでも勝利の可能性はほとんど変わらないことになり、結果的に意思決定の意味が消失する。そうなるとこれはもうゲームではなくなってしまう。故に“ゲームバランスが良い“ということは“ゲーム中の意思決定の局面においてすべての選択肢が等価であること”を意味しているわけではない。つまり特定の意思決定の局面において、“他よりも価値の高い/低い選択肢がある”事実を以て“ゲームバランスが悪い”と評価するのは不適切であると言えよう。

最近あまり聞かなくなった気もするが、どの選択肢を選んでも得点が入るタイプのゲームを揶揄する表現として"point salad"という言い回しがあって、これも基本的には意思決定の意味の低下が問題であり、ゲームに遊ばされているような自律性の薄さが批判されるポイントであった、と理解している。point saladという表現自体は2013年末~2014年始めくらいには生まれていて(redditの「で、point saladって実際なんなの?」というスレッドが2014年2月に立っている)、その後2019年秋にAEGから同名のゲームが発売された時にはまだジョークとして成立していた。結果的にこのゲームの出来が良く、定番カードゲームとして人気を博したこともあって、もはやpoint saladという表現自体が消えつつあるような気がする。「Stefan Feldのゲームって結局ポイントサラダだよね」と言えば通ぶっていられた時代はもう終わったのだ(そんな時代が終わって良かったと思うけれど、まあそういう風潮は実際あったのである)

むしろゲーマーは、それぞれの局面において、どの選択を選ぶのがより勝利に近づけるのかを適切に判断する行為をこそ求めているのではないだろうか。つまり特定の局面において、与えられた選択肢間が実際には等価ではないことを期待しているわけである。それぞれの選択肢を比較する行為自体が意思決定の基礎であり、それこそが近代ボードゲームの楽しさの根源であろう(本来はここから議論すべきなのだが本稿では割愛する)。なので特定の選択肢が明らかに有利である/不利であるのも良くない。選択肢間で明確な差がある場合は考える必要もなくなって意思決定を無意味にしてしまうからだ。要するに特定の局面における選択肢について、“ゲームバランスが良い”ということは“一目でわかるような有利不利はないが、よく考えるとどの選択肢がより勝利に近づけるのかが判断できる(ような気がする)”という実に微妙な状況を意味しているのであって、必ずしも客観的な選択肢間の均衡を意味しない。

書き添えておくと、こうした選択肢間の有利不利の判断は極めて主観的なものであって、あるプレイヤーが悩む余地なく明らかに有利な選択肢があると判断する局面が他のプレイヤーにおいては悩ましい問題であるケースもあるし(これはプレイヤーの性格にもよるしゲームに対する習熟度にも依存する)、一方で選択肢間の差異がその後の展開の幅に比べて小さい場合はそもそも考えてもあまり意味がないと判断するプレイヤーもいるわけで(逆に差異が微小に見えても限界まで考える長考型のプレイヤーもいる)、選択肢レベルであっても客観的にゲームバランスを議論するのは簡単なことではない。

戦術のバランス

もう少し広い意味で、特定の戦術/戦略が他よりも明確に優れて/劣っている、という状況を考えてみよう。「〇〇戦術弱すぎ。バランス悪いよ、このゲーム」というのもよく見かける文言だ。ゲーム開始時(あるいは序盤)に選択可能な複数の戦術について勝利の可能性が同等であるということを以てゲームバランスが良い、と言うこともできるだろう。これは戦術に限らず、プレイヤー間の初期状態に非対称性のある場合の初期状態(プレイヤー固有の能力・勝利条件・初期配置など)に関しても同様だし、あるいは手番順についてもおおよそ似たようなことが言えるだろう(とりあえず以下では“戦術”という言葉でまとめるが、固有能力や手番順なども含めた広い概念を指すものと読んでいただきたい)。ここで問題になるのは、戦術のバランスが取れているということがなにを意味するのか、ということである。もっとも簡単な定義は勝率であるが、勝率が同等であればそれで良いのだろうか?
実際のところ、勝率というのはそれほど信頼性の高い指標ではない。マルチプレイヤーゲームにおいては、戦術間の相性やプレイヤー間のインタクションによって状況が変わるので勝率を比較すること自体も難しい。勝率を検討するには10回20回の試行回数では不十分で最低でも数百回、条件が多岐にわたる場合はそれを検討した上で数千回数万回の試行回数が必要となりうるが、プレイヤーは実際にそこまで試した上でバランスについて物を言っているわけではない。プレイヤーが“バランス”の問題として実感しているのは勝率の差ではなく、むしろプレイの楽しさの差であろう。そもそも多くのボードゲームは、最終的な勝敗を競うという建前によってプレイヤー間で意識を共有し、結果を目指すための過程を楽しむものであり(本来はここから以下略)、結果よりも経過の楽しさをこそ重視すべきなのだ。

2人用完全情報公開アブストラクトゲームである将棋やチェスでは、先手がやや有利であるとされており、先手の勝率が52~55%と言われているが、この差をプレイ中に実感することは難しいだろう。囲碁はコミによってこの勝率の差を補正しているがこれは囲碁がある種の点数制で勝敗を決めているからこそできることだ。ボードゲームにおいても後手番に初期得点/資源を追加で与えたりして補正をしていることが多いが、これが実際にどの程度勝率の均等化に寄与しているのか、気になるところではある。

ゲームバランスと楽しさ

例えばじゃんけんは完全にバランスが取れたゲームであるし、試行回数が多ければ一応は戦術も成立する。しかしだからといってゲームとして面白いかというとそれはまた別の話だ。「ゲーム終了時に100点得る」という効果と、「うまく使えばゲーム終了までに平均して100点を上積みすることができる」という効果は、勝率という意味ではバランスが取れているがほとんどのプレイヤーが後者を選ぶのではないだろうか。
実のところ、「バランスが悪い」と言う評価はプレイヤーの主観的な体験に依存して生まれていることが少なくないのではないだろうか。ゲーム中に感じたこと―不利になっている感覚・抑圧された/制限されたという印象・やりたいことがやれない時間―が、“バランスの悪さ”として表現されていないだろうか。結局のところ、勝率のバランスはそれ自体が重要なのではなくて、プレイヤーの主観的な体験の均等さのための前提条件と言えるのかもしれない。

こうした主観的な体験としてのバランスの悪さは、勝敗よりもプレイヤー間の体験の不均等性が問題になるという意味において、協力型ゲームにおけるアルファプレイヤー問題と似たようなものなのかもしれない。

ゲーム体験としてのバランス

選択肢や戦術などのシステム的なバランスは、プレイヤー全員が楽しむための環境要因であって、実際のプレイヤーに重要なのは主観的なゲーム体験のバランスなのではないだろうか?
これは楽しければシステム的なバランスはどうでもいいということではなくて(システム的な不均衡は容易にプレイヤーを興醒めさせてしまうので)、“バランスが悪い”という印象は強弱や勝率だけでは測れないのではないか、という意味である。

概念としてのゲームバランス

ここではより概念的な、ゲーム全体における“ゲームバランス”について考えてみたい。

探索目標としてのゲームバランス

ボードゲームがまだ一部の人の趣味で発売タイトル数も少なかった時代は(大体2000年前後くらいのイメージ)、例えば「どの戦術が強いのか」「どういう戦法が実際に強いのか」ということを試行錯誤して検討する、ということ自体がボードゲームの楽しみ方の一つであった。特定の戦術が強いのではないかという意見が出たら、それに対抗する戦術を検討するところまで含めてゲームとなり得たのである。ローカルなプレイグループ内におけるメタゲームが成立して楽しまれていた、と言っても良い。現在はインターネットの情報流通が広まり加速したためこうした試行錯誤を楽しむ文化は衰退しつつある。BGGを覗けばゲームが流通するよりも早く「この戦術が強い」と書いてある時代なのだ。もちろん発売されるゲームタイトルが膨大になったため、一つのゲームを遊びこむ、ということ自体が廃れていることも影響しているだろう。多少ゲームバランスに難があっても、それを検証するプロセスを含めてゲーム体験だとして楽しむ時代は、ことボードゲームにおいては過去のものになった/なりつつあるのではないだろうか。寂しい気持ちもあるがそもそもそうした“見通しの悪さ”を排除した上で意思決定を楽しむスタイルこそが近代ユーロスタイルボードゲームの本質であるとも言える。とはいえ、こうした探索的な楽しみ方がなくなったわけではない。ある程度のゲームバランスを担保した上で、初期条件を可変にする/プレイヤーそれぞれに固有能力を与えることで、毎回異なる条件でのバランスの微妙な違いを楽しむ遊び方は、試行錯誤しながらゲームバランスを探る遊び方のより洗練された後継と言えるだろう。拡張セットを販売して既存のゲームに新たな要素を持ち込むのも、ゲームバランスの探索空間を広げることによって新たな試行錯誤を可能とするという意味では探索目標としてのゲームバランスという発想の延長上にあるとも言えよう。

最近では、こうした側面を「リプレイアビリティ/Replayability」として捉えるようになっているが、リプレイアビリティという概念自体がそもそも“ゲームの要素の変化とゲームバランスの相互作用としてプレイヤーの探索空間に与える影響”として分析するべきではなかろうか。

自分の考えをメモ書きしているだけなのであまり気にしないでください

プレイヤーが作るゲームバランス

90年代から00年代前半のゲームに顕著なのだが、プレイヤー間の適切なインタラクションによってゲームバランスが成立するタイプのゲームがある。競りゲームはその代表的な例と言えるだろう。Kniziaの競りゲームの代表作である『モダンアート/Modern Art』や『メディチ/Medici』は参加プレイヤーの技量・相場観が揃っていれば極めて高度なゲームバランスの上でのギリギリのせめぎ合いが堪能できる名作ではあるが、1人でも相場観が異なるプレイヤーがいると途端にゲームが崩壊するリスクを内包している。だからといってModern ArtやMediciがゲームバランスが悪い駄作かと言われるとそんなことはない。これらのゲームは、参加プレイヤーがゲーム中に相互干渉することによってアクティブにゲームバランスを構築することまでを考慮に入れてデザインされたゲームとして扱うべきなのだ。

同時期のKniziaの競りゲームでも『ラー/Ra』『ハイソサエティ/High Society』『ドリームファクトリー/Traumfabrik』などは、競りの自由度が低い(値付けが一定の値に制限されている)ため、システム側からバランスを取る力が強く、より遊びやすくなっていると言える。Knizia氏がトップデザイナーとしてこれほど長い間活躍しているのも、こうしたデザイン感覚の柔軟さ(同じコアシステムを使って異なる目的に合わせてチューンできる、という意味で)あってのことではないかと思う。

当然のことながらこうしたプレイヤー間インタラクションによるゲームバランスの達成にも問題はある。一つは前項と共通するが繰り返しプレイによる探索が必要となる点だ。どのようなインタラクションによってどの平衡点を目指すか、ということ自体が所与のものではないため、一定の探索行為は必要不可欠だ。また、プレイヤー間のインタラクションを前提とするため、同じプレイグループ内での探索が望ましい(という意味で前項よりも更に制約が強くなりがちである)。こうした繰り返しプレイを要求するスタイル自体が時代遅れに鳴りつつある、ということは前項で指摘したとおりである。更に、プレイヤー間インタラクションによってバランスをとる場合、例えばトップ目のプレイヤーを叩くために、他のプレイヤーがコストを払わなければならない局面が生まれることも問題である。トップのプレイヤーを妨害しなければいけないが、妨害をすると自分の利益が伸びず、結果として第三者がもっとも得をする状況が往々にして発生する。これは多くのプレイヤーにとってストレスでありゲーム自体の評価を下げかねない。そもそも他者の妨害をするという負の行為自体を好まないプレイヤーも少なくない。こうしたこともあってか、近年はプレイヤー間のインタラクションそのものが抑えめになっており、ゲームバランス自体もプレイヤー間のインタラクションを前提とせず、システム内で完結したものが増えている印象である。一方でプレイヤー間の相互作用こそがマルチプレイヤーゲームの華でもあるし、またインタラクションが少なければ少ないで「多人数ソロプレイ」と批判されるわけで、塩梅が難しい。全体として近年のゲームでは他者に直接的な損害を与えるタイプのインタラクションが避けられる傾向があるように思う(より間接的な相手に最適行動を取らせないタイプのインタラクションとして実装されるゲームが増えている印象)。

一方で、より積極的にプレイヤー間でバランスを取ることを重視するタイプのゲームも存在していて、古くは『ディプロマシー/Diplomacy(1959)』、最近の有名所では『ルート/Root(2018)』のような非対称型のゲームは、プレイヤーによるバランス調整をプレイ体験に組み込んだデザインであると言える。特に『ルート』に関しては、各勢力の勝率の調査も含めて様々な議論が活発にされていて興味深い。

壊すためのゲームバランス

逆説的だが、壊すためのゲームバランス、というものがある。あるいは基礎的なゲームバランスを壊した上でのゲームバランスを楽しむ、というゲームバランスの二重構造というべきか。カードドリブンとまではいかずとも、カードやタイルなどに特殊効果が記載されている系のゲームは少なからずそうした二重構造の側面を持つ。いわゆるアメリトラッシュ系のゲームは特にこうした面が強く、ユーロスタイルのしっかりした基礎的なシステムの上にそれをぶち壊す特殊効果を盛り込むことで、派手な展開を生み出し実感させることが魅力の一つと言えよう。しかし特殊効果で壊すからといって基礎となるゲームが適当で良いわけではなく、むしろ特殊効果で壊すからこそ基礎の部分のバランスがしっかりしているべきだとも言える。こうしたゲームの場合、“基礎的なシステムのバランス”と“それを壊す特殊効果間のバランス”と“基礎的なシステムと特殊効果の間のバランス”の3つのレイヤーのゲームバランスが共存している。ゲームバランスについて批評をするならば、どのレイヤーでのバランスを議論しているのかを意識する必要がある。

ゲームバランスの多義性

どのような意味・視点・レベルでゲームバランスを考えているのか、はゲームにも依存するし遊び方にも依存するし見る者の立場によっても異なる。「このゲームはバランスが」と言う前に、まずはそのバランスが何を意味しているのか意識するとより建設的な批評ができるのではないかと思う。
バランス云々を語るならば意味のある批評を心がけよということではないが、しかし単に感想を言っているだけであっても、ゲームバランスという言葉自体が多義的なものであることはどこか頭の片隅に留めておくと良いのではないだろうか。

ゲームバランスが悪いと思われないために

わかりやすく(システムの)ゲームバランスが悪い、と言われがちなポイントを独断と偏見で。

明確に強い/弱い効果を作らない

明らかにバランス調整をしていないようなゲームは最近少なくなったけれど、当然のことながら明確に強い/弱い効果、単純に上位/下位互換があるような効果は避けるべきだろう。また、単純な効果の強弱はもちろん、使えるタイミングにも注意した方が良い。同じ効果でも序盤と中盤では意味が異なるので“序盤では強力だが終盤ではあまり意味がない”カードなどを作ると中盤に引いて「今更引いても意味がない」という印象を与えて実際の効果の強弱以上にバランスが悪いと思われがちだ(これが逆に“序盤では弱いが終盤に強力”なら、手札を圧迫するもののそのカードに期待してゲームを進めることができるのでまだマシなことが多い)。ゲーム全体を通じて特定の選択肢が無意味になるようなことがないようにすると良いだろう。

キャッチアップ・メカニズム

ゲーム中盤で勝ちの目がなくなってしまうのは辛いことだ。なるべく最終局面まで勝てる可能性を残す(あるいは可能性が残っていると感じさせる)ことは重要だ。現実社会では往々にして金持ちはそれを投資に回してより金持ちになるわけだが(The rich gets richer)、ゲームの世界ではそれを阻害して、むしろ下位のプレイヤーが有利になるくらいでちょうどよい(ことが多い)。あまり露骨な補正も興醒めだが、特にプレイ時間が長いゲームにおいては、キャッチアップを促進するメカニズムを導入することも検討に値するだろう。

この際に、「トップが不利になる」よりも「下位プレイヤーが有利になる」という形で実装する方がストレスが少なくなる傾向がある。テーマやフレーバーといった表層的な部分だけでもポジティブに演出することには心理的な効果がある……みたいな話も面白いトピックではあると思うがこれはまた別の話。

手番順の補正

手番順の有利不利は見えやすいため批判の対象になりやすい。手番が早いプレイヤーほど選択肢が多いタイプのゲームの場合、やはり手番が遅いプレイヤーへの補正がある方が良いだろう(どの程度勝率が変化するのかはさておき)。ゲームによっては手番と勝率の関係が線形でない場合もあるので注意が必要だ。手番順を可変にすると間違えやすくなることも多く、プレイアビリティとゲームバランスの塩梅が難しい。手番順と同様に、ゲームの終了タイミングの処理も難しく、最近のゲームは「誰かが終了条件を満たしたら、その後全員が同じだけの手番をするまで続ける」系の処理が増えている印象がある(終了トリガー>実際のゲーム終了、という二重構造は、公平に見えて悪くないのだがちょっと説明しづらいのが問題。End game triggerをどう訳すのが良いのかいつも悩む)。

思いついたら適宜追加

さいごに

ゲームバランスとは様々な評価を含む多義的な概念であり、往々にして主観的な要素を含むものである。こうした用語の多義性を意識することは、建設的な批評の場の形成に役立つだけでなく、ゲーマー各人のよりよいゲーム体験の助けにもなるものと期待している。

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