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タイに活動写真を伝えた人

渡辺治水(知頼)という人は、日露戦争勃発時に戦争映画の興行があちこちで大歓迎されているのを知り、吉沢商会(のちの日活)から映写機、フィルム一式を購入し、店員の映写技師まで同伴してタイへ巡業に出かけました。

なぜタイへ?という理由は、タイの初代公使だった稲垣満次郎と個人的に親しかったからとのこと。第一次大戦の勃発によって生ゴムがブームになるまで、10年間もタイで活動写真に関わっていたことになります。

タイでは巡回上映から始めたものの、王族のサポートもあり常設館を設け、また国王の葬儀や戴冠式の実況映画も作成しました。ソウルにあった京城高等演芸館でも、開館当初は渡辺治水が配給する映画を上映していたそうですから、たいそうな成功を収めていたと思われます。

そしてこれらの巨富によって、コタティンギに渡辺ゴム園が開かれました。明治44年2月創業。スマトラカレーの伊藤友治郎編纂の「南洋群島写真画帖」にも掲載されています。大正3年「馬来半島邦人護謨園採液高番付」によれば西の前頭ですから、なかなかの規模だったのではないでしょうか。

タイでは映画は「ナン・ジープン(日本の影絵)」と呼ばれていたそうです。映写技師はダラン(人形遣い)、影絵と同じく布のスクリーンに映して見るのだから、言われてみればそうかもしれません。

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