Mihoko Maisara Yui

マレーシアの最南端ジョホールバルに30年住んでいます。普段は冴えない事務のおばちゃん。…

Mihoko Maisara Yui

マレーシアの最南端ジョホールバルに30年住んでいます。普段は冴えない事務のおばちゃん。ときどきプロのコーディネーターに変身しますが、副業なので紙媒体限定。リケジョだったはずですが、最近は歴女にも変身。ジョホールやマレーシア、シンガポールの歴史についてつぶやきます。

最近の記事

ジョホールの王とよばれた人

10年くらい前にGeocitiesのブログにあった記事なので、今はもう見ることができないのですが、昭和6年10月から12月のできごとについて紹介していたページで「ジョホールの王が養老院に」という記事がありました。 (以下抜粋) マレー半島のジョホールの王、川島烈之助(73)はかつて星亨、板垣退助や烈士筑陽組の隊長もしており、犬養毅首相とは昔の政友だった。ところが昭和6年12月29日の在京紙朝刊は川島が北豊島郡板橋町の東京市養育院2号男室にいることを報じた。 養老院じゃなく

    • こうのとりのゆりかご

      ジョホールバルに本部があった歩兵123連隊に、蓮田善明という陸軍中尉がいました。「文藝文化」の発行人であった国文学者の蓮田善明は、三島由紀夫の思想形成に大きな影響を与えた人物として知られています。 そもそも16歳の三島由紀夫の「花ざかりの森」が「文藝文化」に掲載されたきっかけは、同人でもあり蓮田善明の大学の友人だった清水文雄が学習院で教鞭をとっていたからだそうです。 昭和20年8月19日。イスタナにあった歩兵123連隊本部にて軍旗決別式が行われた日、蓮田中尉は奉焼のため軍

      • 美貌の公使夫人

        かつてタイ国日本人会の会報「クルンテープ」に「美貌の初代公使夫人(全11回)稲垣栄子」という連載がありました。早稲田大学アジア太平洋研究科教授の村嶋英治先生が書かれていたものです。 初代公使とは稲垣満次郎氏のこと。1897年にシャムへ赴任しました。渡辺治水氏がタイへ映画の興行に行ったのは、この方と親しかったとか。「馬来半島南部請願諸国巡察記」の齋藤幹書記官のタイでの調査には、この方もご一緒しているとか。はたまた仏舎利を日本へお迎えするのに一肌脱いだとか。南洋関係の本を読むと

        • 塔の伝説

          もう旧州庁舎となってしまった、サルタン・イブラヒム・ビル。なぜかあの山下将軍が陣頭指揮を執った「司令塔」であるとの伝説が信じられているのですが。じつは「塔」は「塔」でも、ここの塔ではないのです。 「思い出の昭南博物館」(中公新書)の中で、徳川侯爵がコーナー博士や古賀園長を連れてジョホールへ来られたことは、前述(古賀園長とオランウータン)致しました。 オランウータンの骨をジョホール動物園から収集後、一行はジョホール司政長官公邸にて昼食会。コーナー博士によれば、この司政長官は

        ジョホールの王とよばれた人

          スレンバンの大貫醫院

          すわっジョホール王国か?という記事を見つけて、実際はスレンバンだったというオチなのですが。興味深かったので書き残しておきます。 明治の女医さんには、荻野吟子医師(第一号)を筆頭に矯風会や築地バンドに関わられた方が何人もいらっしゃり、先月から本多銓子医師(第四号)と岡見京子医師(第五号)についてのリサーチをしています。その過程で「マレー・ジョホール国スレンバン」にて大貫せんという女医さんが開業していたという資料(三﨑裕子:明治女医の基礎資料)を見つけました。 ジョホール国で

          スレンバンの大貫醫院

          ジョホール音頭

          2002年の日馬ふれあいフェスティバルでお披露目されたジョホール音頭。 文化部理事がコーラスに参加したり、婦人部が振付を担当。歌詞や曲は製作プロと会員が製作しました(著作権はジョホール日本人会にあります)。 前年度のポスターでは、何の考慮もせずにスナップ写真を使って問題になってしまったため、この年のポスターには校長夫人を筆頭としたオールスターが出演。2年間だけは他団体との共同開催でしたが、日本人会の単独開催に戻ったのもこの年からでした。 はるかな日本(ふるさと) 南の故郷

          ジョホール音頭

          コタティンギのからゆきさん

          渡辺治水(知頼)のゴム園についてのリサーチのために「南洋の新日本村(大正8)」という本を読みました。ジョホール河沿いにある日本人経営のゴム園について詳しく書かれている本です。 著者の佃光治氏が、船中から同道した吉井信照元大尉とマワイ園の當房氏とコタティンギに着いたのは午後1時頃。中華飯店に飛び込んだものの臭いが嫌だとかで、行った先はコタティンギ唯一の邦人娼家だったそうです。 「親切な日本ムスメ達」という章には以下の通りに書かれています。                真昼

          コタティンギのからゆきさん

          タイに活動写真を伝えた人

          渡辺治水(知頼)という人は、日露戦争勃発時に戦争映画の興行があちこちで大歓迎されているのを知り、吉沢商会(のちの日活)から映写機、フィルム一式を購入し、店員の映写技師まで同伴してタイへ巡業に出かけました。 なぜタイへ?という理由は、タイの初代公使だった稲垣満次郎と個人的に親しかったからとのこと。第一次大戦の勃発によって生ゴムがブームになるまで、10年間もタイで活動写真に関わっていたことになります。 タイでは巡回上映から始めたものの、王族のサポートもあり常設館を設け、また国

          タイに活動写真を伝えた人

          おはな殺害事件

          1931(昭和6)年。ムアー日本人会の会長のドクター中村および有志より、一人の日本人死刑囚への減刑を願う手紙が、ジョホール政庁へサルタンイブラヒムを経由して提出されました。 死刑囚@ジョホールバル監獄の名前はキタガワカナジ。罪状は殺人罪です。ドクター中村の経営する日本醫院で5年間働き、その後はバトパハとムアーの間にあるSemerahで医薬品関連の小商いを2年間していたそうです。手紙には「仕事にも社会的にも責任感のある人である」と書かれていました。 殺されたのはおはなさん。

          おはな殺害事件

          慕情の人

          ジェニファー・ジョーンズとウィリアム・ホールデンの香港を舞台にした有名な映画「慕情」。作者の韓素音(ハン スーイン)はJBに10年ほど住んでいたことがあります。 彼女の本名はエリザベス・周光湖(チョウ カングー)。父親が客家。母親がフランドル系ベルギー人。河南省に生まれ、北京の燕京大学へ進学後、英国で医学を学んで香港で医師になりました。客家語、北京語はもちろん、広東語、英語、フランス語も話せたそうです。 1952年に結婚したLeon F. Comberがマラヤ駐在の英国人

          イスタナ・ブサールの茶室

          「皇太子同妃両殿下(=上皇ご夫妻)からのご贈呈」との伝説がまことしやかに伝えられているイスタナ・ブサールの茶室。恐らく1970(昭和45)年のジョホールご訪問から連想されているのでしょうね。イスタナ・ガーデンが立ち入り禁止になって以来、ますます伝説に磨きがかかりそうなこの茶室。ジョホール日本人会との関わりをご紹介しましょう。 初代の茶室(四阿とも)は、スルタン・イブラヒムのご在位40年と62歳の誕生日を記念して、1936(昭和11)年4月15日にジョホールおよびシンガポール

          イスタナ・ブサールの茶室

          徳川夢声と戦跡ドライブ

          昭和17年11月5日。「エール」の古関裕而と一緒にNHK派遣の南方慰問団に参加した徳川夢声は、昭南へ到着しました。 ステーションホテルへ投宿。広い部屋に急製の粗末な寝台が並んでいる、とがっかりされましたが、コーヒーは砂糖入れ放題で素晴らしかったらしい。(マライ半島のコーヒーは全部大したものだったとも褒めています) 幸いなことに第25軍の大久保宣伝部長は、東京府立一中の同級生。明るいと思われた前途、昼は海軍病院で夜は陸軍病院の慰問、キャセイビルにあったNHKから内地向け放送

          徳川夢声と戦跡ドライブ

          ジョホール日本人学校の校歌

          年が明けたら、早い時期にシンガポールに行こう。そこからクルマで、マレーシアのジョホールに行こう。なぜなら、そこにある「日本人学校」の校歌を作曲したから。私の作品を、赤道の近くの、たくましくひやけしているであろう子供たちが、元気いっぱい、うたう姿を見たいから。(毎日新聞 1998年10月29日) ジョホール日本人学校の開校は1997年。その年の11月に「ジョホールバルの歓喜」があり、皆で学校名の横断幕を持って応援に行ったのでした。そして開校2年目にはめでたく校歌と校章が制定さ

          ジョホール日本人学校の校歌

          古賀園長とオランウータン

          日本人学校の子供たちも、写生会でお世話になっているジョホール動物園。ここでも戦時中には動物たちが殺されたり、餓死してしまったという悲しい出来事がありました。 上野動物園の古賀忠道園長は陸軍獣医少尉として応召し、昭和17年2月末にサイゴンから昭南島へ着任。目的は天皇陛下へ献上する標本の採集です。「思い出の昭南博物館」には、古賀園長が植物園内の官舎に住み、コーナー博士とホルタム元園長の三人で鳥の鳴きまねをしたり、上野動物園や満州の話をしたりと、一緒に生活していた様子が綴られてい

          古賀園長とオランウータン

          上野動物園への贈り物

          昭和9年3月、ジョホールのサルタンよりマレーグマとシマハイエナ各1頭が、上野動物園へ贈られました。上野動物園百年史によれば、マレーグマは初来園だったそうです。 昭和9年3月、サルタンイブラヒムは伏見丸でアメリカへ向かう途中、約二週間を日本で過ごされています。シンガポールでのお見送りぶりはたいそうなもので、船のメインマストには月と星のジョホール王国の旗が翻っていたそうです。この時に天皇陛下より旭日大綬章を授与されていますので、マレーグマとシマハイエナはその時の贈り物でしょう。

          上野動物園への贈り物

          法華津さんのこと

          「ジジの星」こと法華津寛氏。お祖父さまの法華津孝治氏は、たいそうジョホールに所縁のある方でいらっしゃいます。ちょっとググれば、南亜公司の社長であったことくらいは出てきます。トロ・スンガイにゴム園があった南亜公司は現在の昭和ゴム。森村市左衛門系の会社でした。 虎刈りの殿様(=徳川義親侯爵)の「じゃがたら紀行」の中には、じゃがたら(ジャワ)はもちろん、大正10年と昭和4年のジョホールご訪問についても書かれているのですが、そこにはシンガポール行きの船中からすでに法華津氏と吉井大尉

          法華津さんのこと