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塔の伝説

もう旧州庁舎となってしまった、サルタン・イブラヒム・ビル。なぜかあの山下将軍が陣頭指揮を執った「司令塔」であるとの伝説が信じられているのですが。じつは「塔」は「塔」でも、ここの塔ではないのです。

「思い出の昭南博物館」(中公新書)の中で、徳川侯爵がコーナー博士や古賀園長を連れてジョホールへ来られたことは、前述(古賀園長とオランウータン)致しました。

オランウータンの骨をジョホール動物園から収集後、一行はジョホール司政長官公邸にて昼食会。コーナー博士によれば、この司政長官は敵国人である彼を同じテーブルに案内し、友人のようにもてなしてくれたそうです。親切な長官の名前を書きとめておくのを忘れた、と本にはありましたが。ジョホール訪問は昭和17年3月末のことでしたから、伊丹政吉司政長官であったと思われます。

その後、サルタンご拝謁のためISTANA BARU(Istana Bukit Serene)へと向かった一行。山下将軍がシンガポール攻撃の最終作戦を練り、指揮をとった場所であるISTANA BARUの塔へも上ったそうです。英国軍が王宮を爆撃することなどないだろうと、山下将軍はシンガポールが見渡せるここの塔の上に大きなシンガポールの地図をかけて秘密の司令部を置いたのでした。

戦後。山下将軍の地図は、フォートカニングにあった英国軍司令部に届けられ、行方不明となってしまいました。以上がコーナー博士の本で紹介されている山下将軍の「司令塔」のお話です。


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