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虎狩りの殿様

徳川義親侯爵は尾張のお殿様。「じゃがたら紀行」という著書には、じゃがたら(インドネシア)の話はもちろん、ジョホールに於けるハンティングの記録があり、当時のシンガポールやジョホールの様子が綴られています。

侯爵が賀茂丸に乗ってシンガポールまで来られたのは1921(大正10)年5月のこと。コーズウェイの完成は1924年ですから、ジョホール王国までは汽車でWOODLANDSまで、そしてフェリーに乗り換えてジョホール水道を渡らなくてはなりません。ジョホール王国へ入るためには税関だってありました。

ジョホールバルご訪問のお世話をしたのは、池田商店支配人の江藤氏とジョホール政庁勤務の野村勇氏。戦前のジョホール日本人会の会長だった野村氏には、在ジョホールの日本人はたいそうお世話になったようで、記念墓碑が今でもジョホール日本人墓地にあります。また、池田商店は池田旭(北垣国道元京都府知事の三男)氏の経営でした。

この時はサルタンがエンダウへ出猟中であり、狩猟免許は下りていたものの特別許可(象、犀、野牛)も必要だったため、ジャワへ行ってからまたジョホールへ戻ったそうです。

ジョホールへ戻ってからは、6月初めにサルタンへ拝謁。その後ジョホール河沿いのゴム園を見物、サルタンと専用列車でムアーにて虎狩りと象狩り、バトパハの鉄鉱山見学と、あちこち物見遊山もされています。滞在中には蘭の研究者だった相馬のお殿様(相馬孟胤子爵)が遊びに見えたりと、ジョホールだってなかなかの社交の場であったようですね。

なお「虎狩り」の由来ですが。蕁麻疹の治療で気候のよい南方へ転地というのが、本来の目的だったそうです。それを新聞記者が「虎狩り」と面白をかしく記事にしたことが現地へ伝わり、狩猟が目的の様にお膳立てをされてしまったのだと、あとがきにはありました。

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