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徳川夢声と戦跡ドライブ

昭和17年11月5日。「エール」の古関裕而と一緒にNHK派遣の南方慰問団に参加した徳川夢声は、昭南へ到着しました。

ステーションホテルへ投宿。広い部屋に急製の粗末な寝台が並んでいる、とがっかりされましたが、コーヒーは砂糖入れ放題で素晴らしかったらしい。(マライ半島のコーヒーは全部大したものだったとも褒めています)

幸いなことに第25軍の大久保宣伝部長は、東京府立一中の同級生。明るいと思われた前途、昼は海軍病院で夜は陸軍病院の慰問、キャセイビルにあったNHKから内地向け放送に出演したり、と忙しい日々が続いていたようです。9日にはジョホールにあった南方陸軍第三病院にも慰問に来られています。

遊びに来た井伏鱒二に、慰問先の海軍病院からもらった豪州産のライ・ウィスキーをごちそうしたり、大久保宣伝部長の豪邸で接収映画を見たり、と数日を過ごすうちに胃潰瘍で陸軍病院に入院した夢声を残して、慰問団はビルマへ行ってしまったのでした。なお、夢声日記には「陸軍病院」、古関自伝では「海軍病院」に入院したと書いてあるのですが、ここでは本人の記憶に従います。

入院中は「申し分のないものだった」とのこと。見舞客や入院患者との楽しそうな様子が書かれています。牧場大尉という「入院までジョホール・バル沿岸にある牧場管理をやっていた」という患者も登場するのですが。はて牧場?南洋には乳牛なんかいないし、何を飼っていたんでしょうかね。

退院の日。尉官たちが夢声を戦跡のドライブに連れ出します。ジョホールバルにも来られて、敵前上陸出撃の跡をご訪問されたそうですが。「墨痕鮮やかに書いた木標が建ててあり」とありますので、昔の日本人会の近くにあった木製オベリスクもご覧になったのかもしれません。1947(昭和17)年12月16日のことでした。

なおNHK戦争証言アーカイブスの日本ニュース第140号では、渡河一年後の「戦跡記念碑」と、その周囲が公園として整備されている様子を見ることができます。

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