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こうのとりのゆりかご

ジョホールバルに本部があった歩兵123連隊に、蓮田善明という陸軍中尉がいました。「文藝文化」の発行人であった国文学者の蓮田善明は、三島由紀夫の思想形成に大きな影響を与えた人物として知られています。

そもそも16歳の三島由紀夫の「花ざかりの森」が「文藝文化」に掲載されたきっかけは、同人でもあり蓮田善明の大学の友人だった清水文雄が学習院で教鞭をとっていたからだそうです。

昭和20年8月19日。イスタナにあった歩兵123連隊本部にて軍旗決別式が行われた日、蓮田中尉は奉焼のため軍旗を昭南神社へ運ぼうとしていた連隊長の中条豊馬大佐を射殺した後、そのまま自決を遂げました。

前日の連隊長の訓示で「敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた」ことにより、蓮田中尉は激高に達したのでしょう。彼の遺体はジョホールバルで荼毘にふされ、遺骨はシンガポールのゴム林の中に埋葬されたんだそうです。

「悠久な日本の歴史を請し子」と蓮田善明に評された若き日の三島由紀夫。
恩師の自決は25年後の市ヶ谷での事件に影響を与えたのでしょうか。
そして市ヶ谷での事件から50年後。蓮田善明のご次男である蓮田太二慈恵病院理事長兼院長が帰天されました。

「いと小さき者」を助けることによって、命の大切さを私たちに訴え続けている「こうのとりのゆりかご」。蓮田太二理事長兼院長はその創始者です。

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