見出し画像

私は笑わないことにした

1年ほど前だろうか。Twitterでとあるリプライを見かけた。何に対してのリプライだったのか定かでなはいのだが、確かフェミニズム的な文脈だったと思う。

そのリプライは、このような内容だった。

「そんなに嫌だったなら、その時直接言えばよかったじゃないですか」

私はこの言葉を、今も事あるごとに反芻している。なぜならこれは私にあてられた──いや、おそらく"空気を読む"ことと引き換えに、何かを犠牲にしたり見て見ぬふりしたり、「これでいい」と言い聞かせたりしてきたことがある人、全員にあてられた言葉で、私もその1人だからだ。

職場で、教室で、電車で、居酒屋で、ネットで「なんだか嫌だな」と思った経験は誰にでもあるだろう。しかし、そのとき瞬時に声を上げるには、感情が一気に沸点まで上がる必要がある。無意識のうちにブワッと。

もちろん怒りまかせでなく、建設的な説明ができるのがベストだ。しかし、冷静になったが最後、頭の中ではさまざまなシミュレーションが始まる。「言ったら今後このチームで仕事しづらくなるかも」「この場の空気が白けてしまうかも」「もし味方になってくれる人がいなかったら」「そもそも話して理解できる人ならこんなことをしないのでは」……。考慮しなければいけない要素が多すぎて、仮に打つ手が決まっても、その時には完全にタイミングを逃していることが多い。

反論をしつつ、利益(自分だけでなく、その場の雰囲気なども含む)を保つためには、発言者には多くのことが求められる。論理的な思考や言葉選びの知性、反射神経、その場のパワーバランスに左右されない権力。いずれにせよ、凡人の私にはあまりに難しい。だから大抵の場合、「その時直接言わない」選択をするしかない。「これくらい大したことない」と思いながら。

しかし、おかしなことになんだかモヤモヤする。寝たら忘れる程度だと思っていたのに、何年経っても思い出す。そうして気づくのだ。あの時私が捨てたのは、自分の尊厳だった。本当は大切な、捨ててはいけないものだったと。

けれど、その代わりに私はその場の"空気"という、ある種の公共の利益を守ったわけだ。それだってきっと立派なことだったはずだ──と言い聞かせてきた。

そして、冒頭のリプライを見て、絶望した。

こっちは、社会が醸成したルールに従い、本当は傷ついたのにそれを飲み込んで、愛嬌よく振る舞って、あんたらの利益を守ったじゃないか。それなのにその傷は自己責任だと言うのか。「ごめんね」「ありがとう」なんて期待してないけど、言わない=良しとしていると、本気で思っているのか。

そして同時に、これまでの自分を悔やんだ。あのとき諦めて反論しなかったこと、さらにはヘラヘラと笑ってやりすごしたことがバタフライ・エフェクトとなって、私だって間接的に誰かの尊厳を傷つけたかもしれない。

そんなことがあってすぐ、私はとある飲み会に参加することになった。

夜も更け、二次会ですっかり酔っ払ったある男性は、私の健康診断の情報をみんなの前で暴露した。具体的に言うと不眠の症状なのだが、「寝れないんでしょ(笑)⁉︎」と嘲笑した。

唐突に放り込まれた爆弾に、私は硬直した。そして、その直前の話題で、私の可愛げのない、女らしくない返答が気に食わなかったことへの報復だと、瞬時に感じとった。

さらに、その男性を含めた数人が、その場にいない知人女性の悪口まで言い始めた。「"女のくせに"性格がキツい」「過敏すぎて嫌い」「あいつが損するだけなのに」。くしくも悪口を楽しんでいるのが全員男性だったこともあり、心のなかで「"男のくせに"本人のいないところで悪口とか、本当にダサい」と思った。

その飲み会は入社したばかりの私のために開いてくれたものだったので、気を遣って、笑顔で座っておくべきなのはわかっていた。あるいはバカみたいに明るい振りをして、ノリのいい人を演じる方法だってあると知っていた。そのほうが後々の関係のためにも良い──実際、私はこれまでこういう状況を何百回と経験し、へらへらと何でもないようにやり過ごしてきたのだ。

だけど、私は笑わないことに決めた。

既往歴というプライベートを本人の許可なく開示する無神経さに、「あいつのため」という大義名分で他人を貶す横柄さに、私はもう笑ったりなんかしない。例えそれが"空気を読む"という社会のルールが適応されている飲み会であっても、私だけじゃなく、どこかにいる誰かが、いつか大人になる子どもたちが、今後、こんなくだらないことで傷つかないように。

その男性は何度も「眠いの(笑)?」と問うてきた。その根底には「愛想よくしろよ」というメッセージがあるのもわかっていた。私の態度が気にいらないのも十分すぎるほと伝わった。

それでも、私は笑わなかった。

#我慢に代わる私の選択肢