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「いま」この瞬間をどう生きるか。

風のように生きたいけれど
罪の意識を捨てきれない


風のように、かるがると進む!

かるがると。なんて言ったら
軽率なやつ。
何考えてるんだ。
おまえが今までやってきたこと考えろ。って
自分に罰を与えにやってくる人がいる。頭の中で。


誰の声?


私が作った「過去からの人の声」。


太宰治よろしく
「世間じゃない あなたが 許さないんでしょう。」
というやつだ。
重たい。
風の重量とは正反対だ。



わたしはずっと
自分の罪の重さで自分の呼吸を邪魔して
想念という淀みが身体に蓄積されて
死にそうだった。

苦しさから抜けるために
自分の罪や怒りの反対側に向かい
そこでなんとか呼吸をしようとがんばったこともあったけど
そこは単純に対極に振り切っただけで
動機が「断罪」なので、自分の怨念をふくらませながら
反対側の世界を作り込むだけになってしまう。


たとえば


こどものころ、いじめられたという体験から
あいつらを見返してやる。という初期動機で
何かをはじめたとしたら。


そこにあるのはうらみつらみ由来成分によって
反対側のキラキラワールドを作り出す、という
なんていうかもー、肥溜めをかき混ぜる行為でしかない。




重たくて苦しくてどーしたらいいんだ!!!
風のように
それを軽々と次に活かす、
地球のために生きる。って一体!!!!!どうやったら?ともがいていたら、

ひとみーるからこんなメールがきた。


>まるちゃん

前にもフィードバックしましたが

自分の過去の愚かさに向き合う時には、そこに比重を大きくすると

エネルギーは重たくなり

じゃあどうしたらいいのよ!?と、前に進めなくなります。

過去の愚かさは「ライト」に扱うことというのは、

その罪が軽いという訳ではなく

過去への意識は軽くして、その分「ではどうするか?」「どう変えよう?」と

具体的改善行動を考え、実行してみる方にエネルギーを使わせないといけない。

そうでないと、反省だけして繰り返す というサイクルにはまり込むと

いうことを理解しているからです。

自分のしてきた罪は深くて重たい。

でも、それを払しょくするためには、それをライトに取り扱い

吐き気を感じている暇があったら、自己嫌悪で潰れている暇があったら

ではどうするか?と具体的行動を今この瞬間とっていくことに集中してください。

今この瞬間どれだけ、過去の反省を活かした行動がとれるかどうか?が

一番大事になってきます。

どうぞよろしくお願いいたします。

ひとみ

金子ひとみの言葉より


「今この瞬間どれだけ、過去の反省を活かした行動がとれるかどうか?」


重たくなって、また自分で動かないように仕組んでいたな!


罪は罪。断罪は断罪。


けれど。
そうだった。

そこで頭を働かせなくちゃ。

罪←→軽さ

この二極で、行ったり来たりしていたとしても、
ここに終わりは、ない。
なぜなら、罪を罪だと重たく認識している自分が
無意識に絶対的に存在しているから。

それを、どう払拭させるのか、というと、


「罪」を凌駕し昇華させるほどのスキルを高める工夫をする。


というのが、わたしがひとみーるのメールから読み取った理解だ。

罪を直視して、そこに向けて、どうやったら相手を大事にできたのか。
どうやったら、地球のためにできたのか。
どうやったら、関わった人たち全てを大事にできたのか。

それを顧みながら冷静に分析し、
考えながら目の前の「今」に工夫して生きる。

今いただいているお仕事のひとつひとつから。
お米1粒の咀嚼から。
相手に向ける眼差しひとつから。



相手の命のために。
地球のために。
工夫して生きる。



>まるちゃん
「自分に向き合う」というタスクは、まだわかっていなくとも、
なるべく「自分らしく働く・生きる」というタスクをしながら
観察していくことがベターです。
現実:自分らしく仕事をする、人に接する をやってみる
内観:現実のタスクを通して観えてくることを観察・分析する
ここをカッチリ線引きしてしまい、ただただ自分に向き合おうとすれば
空想・妄想のオンパレードになりますし、自分が何者なのかを見失います。
また、今現実で何も役になっていない自分に気づかず
「自分を見つけたいんだもん(落ち着きたいんだもん)」と自己優先、
自己都合的に生きている人間になってしまいます。
粗削りでも、自信がなくても、まずは人のために自分ができることや
やりたいことに挑戦してみながら、そこで出てくる自分を内観していくことが
本当の「自分を知る」というルートになります。
普通に考えたら、そうですよね?
そうでないルートに進む人たちは基本、本当に自分を知ろうなどと
思っていないのです。
ただただ、今の苦しみから抜け出たくて、そのための方法として
自分を知るという手段がよいらしいという言葉に縋りついているだけです。
本当に自分を知ろうとしている人と、その言葉に縋りついてきた人の
違いはどこにあるでしょうか?
ここについて考え、文章が書けたらいいですね。
どうぞよろしくお願いいたします。
ひとみ

金子ひとみの別の日のメールより




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