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悲劇のヒロインとハクション大魔王と愛の戦士

【同じ過ちを繰り返す=攻略できていない自分の内側がある】



他者とのやり取りの中の自分の振る舞いを毎瞬見抜いていくと

媚びた自分、カッコつけた自分ばかりが現れてきて

死にたくなるほどに身悶える。そこには恥ずかしさしかなくて

いつもぎゅーっと目を瞑って、見たくないな、もうやだ。と思っていた。

ただ、本気でみないから、なんも、変わらない。

変わらないから、つまずく場面、起こるトラブルは、だいたい同じ。

・・・・・

でもでも、いやいや、だっから変わらないんだよ!!
よーぅく見て!!逃げるな!!もーっとその奥に、まだ、ほら。いるでしょ。

よくみて。よくみて。よくみて!!!!

・・・・・・。

ほら。

ここに、死にたくなる感覚だけナルシストに書くだけで。

できない「ぴえん」な自分だけ書いて・・・・・・

死にたくなった、と言うだけで、書くだけで・・・・・・・

・・・・・・・。

「ほら、死にたくなるとか言うと、私すごい反省してるみたいでしょう?そうするといい人っぽいっしょ。

好かれると楽っしょ。誰かやってくれるからサ。

でも私悪くないのです。だからこのままでいいのです。いいでしょ。

だって、ま〜、なにしろ面倒臭いヨネ。

だってほらやらなくたって誰にも迷惑かけてないっしょ。うん。かけてないっしょ。

言っておけば、いいっしょ。なんも、かわらなくて、いいっしょ。」

という、ハクション大魔王みたいな格好をした、ぶっくりと、すっごい大きな体で、大きな顔で、でーんと横に寝っ転がった

それはそれはあほほど怠惰なキャラが、現れる。

おいおい、なんかぼりぼりお煎餅食べながらはなくそほじってるよ。ごくごくジュースも飲んでる。

誰ですか、あなた。

・・・・・・・わ、た、し、だった!!!!!!!!!!

いままで自分を顧みるというプロセスの中に

「贖罪」の感覚がほんとうにおおきく大半を占めていて

ハクション大魔王の姿、尻尾をみつけるのが結構難易度高かった気がする。

硬直した身体の感覚がほぐされていったらまだその先に、いた。

「罪がありました。つぐないます。」という「中の人」が防波堤並みに強固で、固くて、大量で、その先を攻略できていなかった・・・。

そしてそこにはもちろん

昨日書いたような、自分を好きでいるという感覚は、その間にどこかに置き去りにされるか吹っ飛ばされていて

愛で生きる、を前提にしないで言葉を発して、動いてる自分。

感覚的に、「オートメーション」で動いている。
贖罪と怠惰がオートメーションで。

それは「自罰」的な

《わたし だめなこ いらない子》

というビリーフを握りしめたまま

《だから もうどうせ何も変わらない。やらなくていいべ めんどうくさいし ほっといてくれ さぼりたい》

という「ひとごと」な

巨大化した怠惰なモンスターを飼い慣らすという

自分の最も大事な「愛で生きるエネルギー」を恐ろしく吸い取って奪って食い荒らしていく様が

見えるのだった

悪玉菌が善玉菌を食い荒らすような。

パソコンのキーを叩く瞬間。ごはんを咀嚼する感覚。相手に返信を打つスマホを触る所作。

そこここにそれがあらわれる。

身体の中に「愛のエネルギー」がない感覚。

これが、こいつの正体だ!!

・・・・・・

言葉だけが先行して

行動が全然伴わない

それはやっぱり

自分を守る行為でしかなくて

想う=言葉に乗せる(言う)=やる

ができてないと、繋がってないと、その想いは、破綻してる。

というか、そもそも違うんだと思う。それって想っていなかったでしょ本当に。って。

言う←自己防衛(その場しのぎや先々の攻略のため)で言ってたり、

かっこつけて言ってたり、怠惰だったり、迎合だったり・・・・。

自分のことが好きなこと、大好きな人をまもりたいこと。

その想いが本当に強固で、ゆるがないものだったら、行動から、すぐ伝わってくる。



言葉と行動なら
行動をよく観て人を読み
自らの行為を見直す。

教科書を作っていた時に
どこかで次のような
記事を読みました。
(見つからなかった)

人種差別というのもは
言葉で攻撃するものではなく
その人の生き方から
無言の圧のように伝わってくる

という話です。

・自分は好きじゃないから
 ○○という理由があるから
 といって
・相手を侮辱する行為をとる

これを差別と思っている方が
たくさんいますが
これは「人としてやっては
いけないこと」しているだけ

という認識で書かれていて

・自分は好きじゃないから
 ○○という理由があるから
 といって
★相手を侮辱しないが
★自分の生活の中から
 悪いを思ったものを排除し
 好きなものだけを推す活動をする

むしろこういった行為、
生き方こそが
無言の圧力として
我々が自由に生きる
意欲を奪うのだ

という話でした。

酷くののしられることは
ないけれど
広告や看板を見れば
ふわりと伝わってくる何か

それに傷ついたとき
私達はどこに対して
そのやり場のない気持ちを
ぶつけたらよいのでしょう?と。

それを読んだ時に
「偏った何かに対して
悪気なくそれがよい」
と勧めることさえ
どこかの誰かの居場所を
奪う行為になりうるのだと

初めて気づいたことを
覚えています。

教科書を作る際は
ものすごくそのあたりが
どの教科でも配慮されています。

また何も侮辱しなくても
何もお勧めしなくても
自分の生活の中から
意図的に何かを排除しよう
とする行為そのものが

誰かや何かの生きる場所を
奪ってしまうのだと
いうことを知りました。

とすると本当の差別を
無くすためには

★意図的に何かを排除しよう
 とする自分に気づき
★作為的な采配を辞める

努力をするしかないと
その時感じました。

無理やりすべてのものを
全て集めるのは不可能なので
手元に集まるものは
自然の流れに任せつつ

その流れに対して
『自分が意図的に何かを
排除してしまっていないか』
そういう自分がいないか
どうかをよく観察して
見逃さないようにしよう

それが最低限
自分にできることかもしれない
と思ったことを覚えています。

差別云々について呼びかけ
たいのではなく

貴方の中に何かを意図的に
排除しようとする気持ちが
あった場合

『そう思うようになった
背景、気持ちはどのような
ものでしたでしょうか?』

という問いかけをもって
いただけたらいいなと
思っています。

愛とはわかりやすく
行動するものもありますが

それ以上に自分の中で
これってどうなんだろう?
自分の奥底には
どんな自分がいるのだろう?

と自分の罪を疑い
問い続ける姿勢をもつことも
愛であると私は考えます。

この内側の愛の努力が
外側の振る舞いを
自動的に美しくしてくれる
ものであり
内側の努力を十分にせず
外側だけ美しくしようとするから
人は善い人であることに
疲れてしまうのでしょうね。

金子ひとみの文章より


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