淫語プレイに見る他者承認欲求解決のヒント

(※今日の文章は延々といつもの5倍になりました…長いです。)


「人間は自然のうちで最も弱い葦の一茎にすぎない、だがそれは考える葦である」 ByB.パスカル(パンセより)
「我思う、故に我在り」 By.デカルト(方法序説より)

出尽くした感がなきにしもあらずだが、上のような言葉がある。


偉人の言った名セリフ的なもだが、実は私、この言葉の意味がずーーーーーーーーーーーーーーーと分からなかった。

実にお恥ずかしい…(*ノωノ)ポッ  
知ったのは多分小学生位の頃。


お偉い先生方の解釈も読んだし、哲学家の女性に懸想(←)されて、求愛された時に彼らに質問したがそれが一体どのような意味合いなのかを教えてはくれなかった。結果「解釈論」に及んでしまい、自分としてはこの言葉がどういった意味を持つのか納得行く答えは出なかった。

そして、私は激ストーカー気質でもある。

良きにつけ、悪きにつけ長年ずーーーーーーーーと気になった事を考え続ける癖がある。

未だに分からずに考え続けている事の最も大きな命題は
「愛」
だ。

私は常に愛について考えている。


話題がそれたのだが、この言葉達はそのまま、私の処理されない未処理フォルダーの中に入っていた。

すると昨日たまたま右手で事足りる陰キャの私の数少ない心開ける男友達が連絡をしてきて、こう言った。

「やっぱ俺自己承認欲求のモンスターだわ。これからはこれを克服するべく変わって行くつもりだ。必要な本とか読まなきゃ」

それを聞いて(正しくは読んで)ふと自分の最近の変化と承認欲求が今ほとんど無い事に気づき、友人に何故そうなったと自分で推察しているのかを伝えたくなった。
伝えたくなったのでここに記録しておこうと思う。

私がやった事はたったひとつ。

悪い言葉を吐いて、
悪い事を想像する。

これに尽きる。

しかしこれもやり続けているとあまりに脳が慣れてしまいブロックを解除するときの脳内レバーが効かなくなってしまい、戻って来れなくなったり、慣れてしまったりする。

面白いもので世の中には淫語プレイというのがあるのだが、(※ちなみに私はこうした経験を自分の「非常に個人的な性を巡る冒険」というマガジンに今まとめているのだが、あまりに膨大(構想が?w)なのでちょっと手が付けられないで置いてある。)
要するに脳は言い慣れない言葉を発する事に抵抗があるようなのだ。

面白いのだが、汚い言葉いわゆる他人を悪く言う言葉や秘めるべき言葉と一般的に思われている言葉に脳は反応し、自分がそれを発する事や他人がそれを発すると注目する傾向があると自分は思っている。

これについては、例えば全然違う話しをしている少人数グループで突然話しに脈絡なく「SEX」と言ったとすると皆それに注目するのだ。(脈略が無いので驚くというのももちろんあるのだが、日常会話の中で脈略が無い会話なんて普通に存在すると思うので…やはり相当のインパクトを人に与える言葉なのでは無いかと推察する。)

そしてこの抵抗感を楽しむのが前段の「淫語プレイ」という奴だ。やらしい言葉をパートナーに言わせたり、言って聞かせたりする事で多分脳がそのブロックを認識する刺激を快感に換えてのプレイなのだと思うのだが、私はピンと来ない。だが、好きな人は好きらしい…w

まあ細部にまでこだわって行くと人のバックグラウンドによって、「淫語」は変わるのでそれらもセッティング(?)が必要なのかもしれないのだが…。


という訳で人は

・普段発しにくい、発して無い言葉を使う事に脳が慣れていない。

という話しをした。これにまつわるもうひとつ面白い話しは
「口喧嘩」である。

日本には「女性言葉」と「男性言葉」がある。
この事についてはフェミニズム等についても言及しなければなくなるので、ここでの解説は避けるが、今回の「口喧嘩」で圧倒的勝利を収めるのも「男言葉」である。

男言葉は相手に強く刺さるように作られているように思う。

この男言葉どんなのがあるかというと
「てめぇこら」
「バカ」
「4ね」
「56すぞ《゚Д゚》ゴラァァァァァァァァァァァァア!!」
等がある訳だが、我々は長い事この惑星の上で生きているのだが、ほとんどは他生物との闘いに終始し進化を続けて来た。

・他動物と闘い
・ウィルスと闘い(今2020/03/25まさにコロナ真っ最中ですw)
・人と闘い
・自分と闘う

こうした経過を経て、社会性が伴い都市を形成しはじめると、今度はそこで上手く立ち回る能力を必要とされる。要するに人と闘う事を蔑ろにせざるを得なかったのが近代社会な訳なのだが、この人と闘う事で磨かれる事がある。それはとっさの判断力が増すという事である。とっさに防御と攻撃を繰り出さねばならない時に、普段から喧嘩言葉を使っていないと

「ばーか!」
「ばーか!」
「ばーか!」

しか言えない本当にバカみたいな自分に悲しみさえ覚える程になってしまう。


そこで見習いたいのがDQN言葉である。

「あああ↑」
とか
「おらぁ↑」

とか掛け声が入るだけでも相当である。これらを習得し、実際に発する事によって、相当対人戦の「口喧嘩」の強さは強くなる。後「口喧嘩」はとっさの短い言葉や抑揚の中に相手を的確に「Dis」る音とワードを入れなければならない。あとパフォーマンスも出来れば伴った方が良い。

これらに関しては「関西圏」の言葉が最強である。
そして音に関してはキャンキャン系はやはりどうしても弱く感じられるようで、できれば低めかつ狼狽してない感を漂わせるのがとても効果があるようである。


さて、このDQN言葉。「口喧嘩」にもってこいなのだが、脳内にレバーがあるとなかなか出にくい。

しかも気に食わない奴の事を
「あの糞やろう」
とか
「4ねば良い!」

と日頃から練習をしていないととっさの時に出て来ない事も多いのだ。後は場慣れも必要である。
場に慣れておかないと焦りが出て急のトラブルに対応出来ない時もある。
さてこうして、「口喧嘩」の達人になったとしよう。

そうすると「脳」はあなたが普段意識的、無意識的に「ブロック」をかけている言葉に慣れて自由に使い回せるようになる。
そうなると今度は先程の「淫語プレイ」では無いのだが、もっと言ってほしくなったり、もっと言いたくなる。

ここまで来ると今度は過剰になってしまう。

世の中に「イキる」人が多くなったと言われているが、一つは人々が身近なとるに足らない事と思われていた「口喧嘩とイキリ」の動画をネットの発達したこの社会に気楽に投げれるようになって来た事が一つ。

もうひとつは、このような言葉をできれば「社会性」故に封印してきたカルチャーが少し損なわれ初めているからでは無いかと考えている。これはグローバリズムの影響もあるのかもしれない。しかして、損なわれているのは全体のうちの数%で、ほぼほぼ日本人の80%位のサイレントマジョリティはそのままやはり規範に従い、自分を「律する」事になれてはいる。ので「昔は良かった論」というのはここでは語らない。

そして「イキる」言葉を使う事は悲しいかな快感でもあるのだ。悪い言葉を使い相手を支配する事は脳内の喜び依存物質である「ドーパミン」を多分生成させる。これによって、人はこの言葉をどんどん使うようになってしまうのでは無いだろうか…(マウントを取ると気持良いってやつです)

これは「イキり」が習慣性を帯びてしまう一つの可能性として上げておく。


さて、ここまで来て、あなたがもし、ここまでの文章を読んで、口喧嘩の達人になったと過程する。
あなたはイキリ、普段使いの言葉が変化するだろう。


イキる言葉が普段使い出来るようになるとどうしてもそれらを多様する事も多くなり、そしてどうしてもそのような方向に思考が向かいがちになるのも事実であるのだが、ここで思い出して欲しい言葉がある。

前段で出した「イキる」事で二次的に満足される欲求があるのかもしれない。(私は専門家では無いのでわからないのだが)


「品格」だ。


しかし、ここまでで語って通り、実はこの「品格」は前段の「下劣」な自分自身をちゃんと経験しないと生まれないのだ。
ちゃんと自分の「品格が無い現実」を知らなければそれを「御して」あえて品格を生む美しさや孤高やそして崇高さを選択するという道は生まれない。

これがとても重要だと思っている。

私達は「孤高」で「崇高」で「美しい」「品格」のある存在ではもともと無いのである。我々は生々しく、欲望に囚われた「動物」でもあるのだ。それを知り、理解し、需要し、それでもなお「品格」ある自分を選択する事に大きな意味があるという事なのだと思う。


要するに
「糞やろう!」
などと言葉に出して言う事は実は自己肯定に繋がるのだ。(自分がそう思っているという事をちゃんと理解し、その上で行動化する)


私は前段でも書いたが粘着ストーカー気質なので、忘れるという事があまり無い。
忘れてせいせいするという事が無いのは私の幼児期のいかんともしがたい「事件」に巻き込まれてからの経緯だと思っている。
この事が原因で死や対人等で起きる恐怖に対してそれを忘れる事が無い。

以前、第二次世界大戦の時に収容所に入れられていた女性がそれらを彼女に課した圧倒的な力を
「許す!」
と宣言する動画を見た。その時は私は「涙」した。


彼女の言い分はこうだった。

「もしも今、私の家族がこれを見ていたら、彼らは私が常に過去に生き、怒り、憎しみに囚われ自由に生きられない姿を見て悲しむに違いない。だから私は彼らを許します。」


素晴らしいメンタリティだと思った。

感動して涙が止まらなかった。この動画を見れた事、彼女の決断を知れた事は私にとって非常に有益になった。

…なったのだが、私は彼女のように出来なかった…。

というか彼女が宣言をして彼女が強いられた凶行は、他人の「欲望」成就の為の大きなうねりに巻き込まれたというひどく無責任で勝手な出来事だった。

と言葉にし宣言する事で、彼女の身におきた現実が彼女の中で客体化されたのだろうと思うのだが、そこからどのようにして他人の「欲望」のせいで自己の幸せがその犠牲になったという現実から気持を切り離せたのか、実際その後の彼女の様子は見る事が出来ないので分からないのだが、私はこのように自分が高尚な気持を持てない生き物であるという事をこの数年後に知るのである。

要するに私も彼女にならって、自己内宣言をしてみたのだ。
「私はあいつを許す!」
と…。

しかしどうしても事象から気持を切り離す事は出来なかった。

私は「許そうとしても許せない許せない矮小で見にくい愚かな存在に他ならない」


私は彼女の宣言によってこの事を実際に強く知る事になる。
だから彼女の宣言は私にとって非常に有益な事実だった。


私はこの人生の中で私が本当に嫌いな奴が右手で数える程居る。
その中の筆頭が実はNYに住んでいる。(という事しか知らない。あまりに嫌なので彼に繋がる全ては切り捨ててしまった。)

NYに住んでいる庶民の人たちの暮らしが上手く行って欲しいのは事実なのだが、私はそいつがNYに住んでいて、そしてそいつが今戒厳令で動けないだろう事(2020/03/25)やウィルス等の情報で酷い辛い目に会っているだろう事を想像して悦に入ったりする。

しかし、それ以外のNYの方々はどうにか幸せであって欲しい。安全であって欲しいと思ったりもしているのも事実なのだ。

だが良く考えて欲しい。
要するに私の中には奴一人の事が原因で他国の他の都市で起きてる悲劇に対して
「しめしめ!」
と思っている自分が居るのだ。

その下劣で愚かで矮小な自分をね。
認識する事。
これが実はすごく大事だという事が最近わかって来たのだ。

言葉にするという事は、自己に責任を発生させる事だ。


かつてイチロウは父親に
「将来プロ野球選手になる為に毎日ステーキを食べたい」
と言ったらしい…。
彼は文集にも自分が「プロ野球選手になりたい」
と書いていた。

彼の中にあるこの欲望に対する自己認識と言語化する事に伴う自己責任。
そして彼はこの「自己責任」に対して自分に誠意を持って誠実に答え続けたのだ。

プロの世界は厳しいというが、プロの世界じゃなくても世の中は厳しい。
イチローは万全を期するタイプだった。
では万全を期する為に何をすべきかと言えば、

・自分の欲望をまずはちゃんと認識する。
・そして理解する。
・そしてそれに責任をもつ
・そしてそれに答える


という事だ。

前段で話しした「非常に個人的な性を巡る冒険」のマガジンに書こうと思っている私が出会ったいわゆる「アングラ」な世界の人たちはこの「欲望」に良くも悪くも素直だった。

なので社会的成功を収めている人も多いのだ。
自分が何が欲しいかわかっている人にとって、その欲しいものを手に入れる道は近くなるのは当然の事だ。

そしてこれらのプロセスは全くこの同じ道を歩む事で肉体や脳に洗練され残って行くものであり、社会性を尊ぶあまりに自らの中にあるいわゆる「下劣」と言われるものを無視してはじめから「品格」を選ぶ事は出来ないのだ。

要するに臭いものに蓋をして、良い部分だけを見る事をどうしても「社会性」のあるコミュニティでは求められるのであるが、これを自己成長の間に省いて最初から綺麗で良いものを要求してしまう事で個の内的な問題が解決されないまま表だけをかぶってしまう。

すると自己認識がおろそかになり、自分が本当に何を欲しているのかに気づけなくなる。
気づけ無いと自己欲求を満たす事が出来なくなり、自分の欲求を満たせない自分に辟易する。
辟易しても気づかないので、辟易して自分を嫌いなまま生きて行く。
すると自己責任がもてなくなりアイデンティティが育ちにくくなってしまうのだ。

これらをしない事には自己承認をちゃんと満足させる事が出来なくなり、承認が足りなくなるので、「他者承認」を求めがちになり、何度でも他人からの承認を欲求する体質になってしまうのでは無いかという仮説なのだが…。

要するに人は考える葦であり、我考える故に我があるという事である。


そこで考えるのは常に自分の事であるがこれは自分が優位になるという事ではなく、自分の本当の欲求は何なのか?自分とは何なのか?この問いを自分に繰り返し続ける事でしか私は自分の心の「安寧」を手に入れる事は出来なかったのである。

自分の経験からこれをここに記しておこうと思う。


※最後に…実際私はかつて「他者承認欲求」を求め続けるモンスターであった。その頃は本当に苦しくて仕方がなかった。酷い人間だったのだ。これを克服出来た経緯が他の人に伝わる事で誰かが少しでも楽になる事ができればと思ってやまない。

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