アニメの中ですら「デカい事」が起きない現代の日常

ただでさえ世の中に何も起こらず、世の中が明るい方向に発展していかないつまらない日常に溢れた時代に、最近はアニメや漫画の世界もスケールが小さくなっている。


何かやろうとする人は今の時代冷めた目で見られるわけで、そんな時代にはどこも社交辞令やマニュアル対応だけが得意な無個性な人間しかいなくなるのは必然だろう。今時アツい情熱を持ったノリのいい奴はおらず、誰もが疲れ切っているのだ。


昔はつまらない日常に対して、せめて想像の世界では叶わない夢を実現しようとして想像力に溢れた作品が、大きな予算を投じて作られていたから面白い作品が多かった。

それが今では特に男性は購買意欲が低く、所得も低くなり、貧困と孤独と絶望にまみれた日本社会ではもう、アニメや漫画の世界ですらデカいことは非現実的で「癒されない」という時代になっている。せいぜいソシャゲで嫁キャラクター作るか、バーチャルユーチューバーや日常アニメを見て、ネットでは表面上のいいねだとかスキだとかしあっていればなんか孤独は癒されるよねっていう時代で、誰もが和を乱すことを恐れている。


仲間(だと思っている人々)や帰属していると思っているコミュニティから排除されることを恐れ、おかしな奴や風変わりな奴だと思われること怖がっている。かつての農耕村社会の時代に今の日本人は逆戻りしようとしているのかもしれない。

村コミュニティがネットという空間に現れ、うわべだけの挨拶のようなものがまさにイイネ!なのだ。本当はスキだとも思っていないし、良いねとも思っていない他人同士がつながっているような錯覚が世の中を支配している。


そういう無個性で夢を見ず、活力がない消費者しかいない世界はそりゃつまらないものしかできないよなぁという典型が今のアニメ業界なのだ。


オタクってもっと濃い奴らなのかと思っていたら、けもフレ見て「すごーい!」と無表情の疲れきった表情で書きながら、即自的な一体感満たすことで満足な人たちしかいなんだなぁと思うと、なんか想像していたのと違うなと思う。

ハルヒの時のハレハレダンスしてたあのアツい奴らも、実は10年後には日常アニメみてそれなりに満足するような人々にしかならなかった。

オタクの権利向上のようなムーブメントの末に訪れた世界はただの日常に満足する世界なのだ。一般人とは違う変わり者だったはずのオタクが今一番の普通の無個性な人々になっている。というよりもそもそも、オタクは濃い奴らだというのが幻想だったのだろうし、実は普通の人たちがただ集まっているだけに過ぎなかった。

普段は忙しく普通の社会人や一般市民として凄し、そして節約志向の中で大きなことはできず、ストロングゼロを飲みながら少ない空き時間でバーチャルユーチューバーを見るというのが平均的なライフスタイルが確立され始めている。こんなつまらない世の中に誰がしたのか、つまらない世の中ではつまらないことをするしかないというのが現実だ。


オタクの体質が現実なんてどうでもいいけど、アニメやゲームの世界ではデカい冒険に夢を見るぜ!という時代から、ついには空想の中でも元気が無くなってきた時代に生きている。

日常アニメばかりになったのはそういう傾向の表れで、それに対して疑問を持っている人の方がもはや少ないだろう。

ソシャゲとバーチャルユーチューバーと日常アニメ見てれば幸せっすみたいな世界に、昔のオタクがそりゃつまらなさを感じるのは仕方がない。

リア充も外車に憧れる時代から軽自動車でいいよという時代になり、今時男ならスイス製の時計をつけているべきだなんて上司もいなくなり、低予算や不景気の時代に誰もが適応しきっている。


2018年ってすごい未来が訪れるのではないかと思っていたら、むしろ10年前より劣化したしょぼい時代しか来なかったわけで、ハルヒやけいおんの時のような情熱はもうない。

その前のエヴァンゲリオンやネギまもあるが、ハルヒやけいおん!の京アニ関連の物からオタク界が拡大していくかのような雰囲気があった。

そして訪れたのはバーチャルユーチューバー見て日常の疲労を癒しますっていう小さな日常の時代で、いろんなものがどんどん縮小して老朽化していく時代だったというのが現代の日常だ。

夢見てた世界ってこんなはずじゃなかったよなぁ・・・・と思いながら、みんな寂しく日常アニメを見ているのだろう。


壮大な未来都市や大都市を思い描いていたら、現実には人口が減りインフラが老朽化していくだけで、近未来なんてものはなくむしろ老朽化して古くなって寂れていくのが現実なのだ。

自分は地方に住んでいるからよく実感するが、現実には壮大な予算と労働力を持つ中国の方が大都市を建設できるんだよなぁと感じるし、日本の時代遅れのの建設業界には若者は誰も参入せず後継者不足と予算不足に悩んでいる。

自分たちはこうして苦労してきたんだから下も苦労するべきだ、という考え方にまみれた日本社会からもう新しいことは発生しないというのが現実だ。

空き家や空き店舗だらけで、近未来の壮大な都市なんてありえない。

AKIRAの2020年の東京オリンピックのような景色は実際には訪れない。もう一つの物に日本全国が盛り上がるような時代でもなく、1964年のような熱量のある東京オリンピックにはならないだろう。

当時も地方には東京だけでやっているという感覚はあったが、今の時代はさらに東京だけのブームに対して冷めた目線の人が多い。


子供が少ないしテレビを見ている層も高齢化してきて、アニメの放送も減り、露骨にこれ高齢者向けなんだなっていうしじみや青汁のCMとか、そんなんばっかりなのが今のつまらない時代を象徴している。


あの頃に見たアニメやゲームの世界にいたような巨大なドラゴンはいないし、ロボットやモビルスーツなんて開発されないし、自分のよき理解者となり支えてくれる美少女もいないのが現実だ。

クールなライバルに急に勝負を挑まれたり、アツい仲間と巨大な敵に挑むなんて展開も現実には起きない。

そこにいるのはバーチャルユーチューバーみて満足して、もはやすっごーい!とさえ言わなくなった冷めた人々なのだ。夢見ても無駄で、未来は明るくなっていかないと悟ったオタクたちは小さなことで満足する日常に埋没している。


そして現実社会に埋没できる人の方が実は良い暮らしはできて、不満も持たずに済むし、小さな幸せに満足できる人の方が適応力は高いのだ。

自分の様に社会に抗ってこうして悲惨な底辺生活をするよりは、素直に社会に適応していた方が生きやすいのだろう。


ロボットアニメも若者が離れかろうじてガンダムだけがなんとかやっているが、アーマードコアはもう新規作品は絶望的だ。ロボットアニメは資本主義という現実に負けたのだ。巨大勢力同士がロボを開発して広大な戦争をすることなんておきやしない。

機動戦士ガンダムが作られた時代というのは冷戦真っ只中で、富野由悠季が戦後の冷戦世界や学生運動の時代を体験したからそういう感覚を投影できたし、そういう感覚を理解できる視聴者が多かった。


今はロボットアニメシリーズを開発しても子供は見ないし、子供がそもそもいない。ゾイドが今度新しいアニメを放送し、全国規模で様々な関連商品を展開する予定だが、これはおそらくコケるだろう。

「暴れろ!本能のままに!」と言われても、今の子供にそこまでイキる気力はないだろう。不良が学校から絶滅している時代に、暴れろと言われても子供たちはそこに憧れないし、暴れたいとも思っていない。

奪ったバイクで走りだす15歳なんて今日日絶滅危惧種で、大人になって社会人になったときのために、みんなLINEグループで和を乱さない訓練を積んでいるのだ。


よくよく考えればロボットに夢を見ていた世代というのは「鉄腕アトム」の手塚治虫や「ドラえもん」の藤子・F・フジオのように、もう存命していない世代で、かろうじて富野由悠季や宮崎駿がまだ生きている。彼らが逝去すればいよいよ時代の終わりを感じ時がやってくる。

ロボコンで日本勢が中国勢やアジア勢に勝てなくなって、日本がロボット大国だという時代は過ぎ去って若者はロボには興味がない。

これが現実だ。


ゆとり世代にとってはまさに青春の遊戯王も、ルール改定をきっかけに現実にはユーザー離れが起きていて、ついにはカードもオワコンになりかけている。

木製→ブリキ→プラスチック→カード→コンシューマーゲームのデータ→ソシャゲのデータという変遷を経てきて、今はソーシャルゲームのデータが子供にとっては一番の憧れだろう。

自分はプラスチックの玩具とコンシューマーゲームのデータが一番かっこいいものだとして育ったが、今は小学生がソシャゲのガチャをやることが普通のことになっている。

いつの時代も若い人が最先端のものに適応する能力は高いし、それを小規模になってスケール感がしょぼくなっていると考えるのはもしかしたら老害の嗜好なのかもしれない。


地域のおもちゃ屋さんやトイザラスにゾイドのプラモやガンプラがずらりと並べられている光景を見たときの昂揚感は今の子供たちにはないのかもしれない。

今はベイブレードやミニ四駆が再ブームになっているので、そういった文化自体はまだあるが、やはり地方の量販店などに行くと昔に比べて玩具コーナーは縮小ているし品数も少なくなっている。ネット通販の時代になったからというのが大きな理由ではあるが、大人になったらもっとすごいおもちゃができているだろうという時代にはならなかった。

確かに技術は上がっているしコトブキヤゾイドは精密な作りになっている。ただし、タカラトミー製のものやビーストウォーズやトランスフォーマーが大量に並べられていた時代のスケール感はない。

あの頃子供だった人が大人になって今も買っているが、できれば子供に買ってあげる大人になりたかったというのが本音かもしれない。

実際には独身の成人男性が昔を懐かしみながらかっているだけで、今度放送されるゾイドアニメは子供はきっと見ないし暴れないだろう。


今時の子供に合わせてコクピットに乗ることからまたがることにしたのは何の意味があるのか。

イナズマイレブンやダンボール戦記を模倣して必殺技に文字を出す演出を取り入れているようだが、真似するのそこじゃねぇだろ感はある。

本当は今時のキッズに合わせるならば、ゾイド自体を小さくしておもちゃ同士で戦わせるというアイデアにするべきだったのかもしれない。


いずれにせよもう巨大な猛獣型のゾイドが派手に戦い合う時代は訪れないということに変わりはない。

タカラトミーは20世紀のノリであんなことしてないで、ベイブレードに全力投入するべきだったんだろうなと数年後は言われているだろう。

ようやく復帰してきたタカラトミーにとってこれはミッドウェー海戦になり、ゾイドは南雲として批判されるかもしれない。


それでいえば太平洋戦争みたいに広大な海洋で近代海戦が行われる時代も訪れないだろう。

中国が今3隻目の空母を建造しているらしいが、そのペースじゃアメリカには追いつけない。せめて現段階で10隻あれば、今にも戦争が起こりそうなスリル感は味わえるが現実に今の中国に冷戦の時のソ連のような怖さはない。

まるでジェットコースターやお化け屋敷にスリル感を求めるような感覚で自分は他国の軍拡にワクワクしているが、今の中国は「そこまで怖くないお化け屋敷」のようなもので、やっぱ1960年代の冷戦味わってみたかったなぁという思いはある。

前述の地方のインフラも、その時代に壮大なスケールで開発され今のようになっているのだが、地方にもうそういうエネルギーはないだろう。

軍事オタクとして言うのも何ではあるが、もう自衛隊は全部解散してその労力や予算を地域開発につかった方が本当はいいのかもしれない。

今の時代戦争をするメリットはないし、F35買う予算で一つの街を再開発するほうがよっぽどスケール感はあるよなと思うし、介護士の給料を軍事予算で上げてそこに自衛隊員の方がいったほうがよほど日本のためにはなるだろうなぁと考えることもある。

帝国海軍みたいな壮大な海軍を作ってほしいという思いもありながら、同時にもうそういう時代ではないんだろうなということも感じる。


やはり自分は20世紀生まれで、近代の感覚をどこかまだ持っている世代なのだろう。

これからの21世紀生まれにとっては完全に20世紀は歴史上の出来事で、近代やモダンという時代は体験していないことになる。

90年代生まれまではギリギリテレビの影響力が大きかった時代を知っているが、いわゆるネットネイティブ世代はナチュラルにネットのほうが大きいことを実感して成長するのだろう。

素直にユーチューバー楽しめる人は現代のコンテンツにワクワクしているのかもしれないし、もしかしたら壮大なスケール感を感じているかもしれない。バーチャルユーチューバーが昔のアニメに比べてしょぼいなんてことも思わなくて済む。


そんな20代ですら今の時代に物足りなさを感じるのだから、日本経済や日本のコンテンツの黄金期を体験した世代はもっと今が物足りないだろう。

邦楽全盛期やガンダムブームをリアルタイムで経験したり、ネットのオンライン対戦なんてなく地域のゲームセンターが不良のたまり場だった時代を経験した世代は今のつまらなさに耐えられないかもしれない。

その上独身で結婚できないという現実が迫るわけで、その代替となる現実とは違うアニメの世界にも、ついには現実と日常が押し寄せてきているということになる。


アニメや漫画、ゲームにも現実と日常が押し寄せてくる時代に人々は生きている。

テーマになるものは日常だし、制作費用という大人の事情も現実だ。

もう日本にはどこにも面白い理想郷など存在しない、これが今の時代のつまらなさや虚しさの正体なのだろう。

面白いとおもたら銭投げてけや