”気遣い”が出来ない人はダメな人?

私は昔から、気付きすぎるところがある。だけど気遣いが出来る人ではない。
多分、自分が気遣いされていると感じるとなんだかリラックスできなくなるからかもしれない。
日本は”気遣い文化”があり、日本人は気遣いが出来る人が多い。
気遣いは素晴らしい文化であると思う。もしそれが相手をリラックスさせることなのであれば。
ありがたいことに今までたくさんの人に助けられてきた人生だと思う。
特に海外生活でピンチの時に手を差し伸べてくれた忘れられない人たちは、すごくナチュラルに助けてくれたなと今も感じる。その人のありのままの人柄というか。
言葉での表現が難しいところなのだけど。
自分が満たされていて心に余裕があるから自然としてくれているんだなという感じ。
きっと文化の違いというやつもあるんだろうな。

なんとなく、ニュアンス的に”気遣い”にはこうするべきが背後に少し見える気がする。
ちょっと正解が存在するような。
そして”心遣い”という言葉もあるが、それはその本人がどうして欲しいか察すること。な気がする。

気遣いや心遣いについて考えるとき、ある昔のエピソードを思い出す。
もう10年とか以上前の私が海外移住する前の話。
クラブで酔いつぶれてソファにぐったりしているコがいて、今にも吐きそうにしていて、まわりがチラチラと気にかけていた。水を持って行ってあげたりもみんなでしていたんだけど、そのコがトイレへ向かった後、私はそのコが座っていたソファに座った。そうすると、座っちゃダメだよ的なことを言われ、気遣いのできないヤツ的な目線をくらったんだけど、もし私がその子の立場だと、まじでもうほっといてみんなはみんなで楽しんでくれって思うんだよな。もちろん気にはなるが、吐いてから復活したらいいね!くらいに思ってっもらえる方がありがたいと思う。
マジで助けが必要な時は言うから!
て感じ。
なんか、価値観、なんで周りと合わないんだろう・・・とすごく思ったエピソードだった。
アメリカに住んでみて、やっぱり私の価値観全然変じゃなかったんだと思えて嬉しかった。
アメリカでは、自分の希望は自分で声を発さない限り、無いものとされる、
本当にシンプルなもの。
日本のように空気を読む、雰囲気で主張みたいなものではない。←だってこれはその人にとって正解なのかはわからないよね・・・
シンプルに、欲しいなら欲しい。とってもわかりやすく無駄なエネルギーを使わなくて、誤解も回避できて最高だと思うな。
もはやアメリカ人にはなんのことを話してるんかわからんレベルにナチュラルなことなんだろうけど。
これはヨーロッパでも感じたし、やっぱり気遣い文化は日本独特かもしれない。
お土産文化も日本みたいに無いし、お返ししなきゃ的なやつにも悩まんで済む。
あげたかったらあげたい時にあげる。以上。完結。という自然発生的な気持ちでやるだけなので本当に私にとったら楽ちんすぎて、自分はダメなヤツなのかと思わなくて済んだ。
言語の違いやあらゆる移住においてのストレスがあったとしてもこの気遣い文化の無意識レベルのストレスが無いだけで日々伸び伸び過ごす心の清々しさは格段と上がっていた海外生活だった。





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