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発達障害という言葉は誰のためのものか?

前回の記事で発達障害という言葉は大量生産大量消費の文化の中で生まれたものじゃないか?ということを書いた。
これをもう少し掘り下げてみたいと思う。

このことをもう少し直接的に表現するならば、発達障害というラベルを人に貼る必要があるのは誰か?ということだ。
規格外の野菜を排除するのはそれが高く売れないから。
人間の場合も規格外の人は使いにくい。
大量生産大量消費時代には均質な「商品」が求められる。
労働力も言ってみれば商品のように価値づけされる。
組織への貢献度が高いほど高い価値が置かれ、貢献度が低ければ価値が下げられるし、そもそも入れてももらえない。
そして、その貢献度の価値をとりあえず測るのが学歴だった。
従順に組織のために尽くせる人間が一番高い価値を置かれ、報酬も高く支払われる。
逆に組織の社会の中ではぐれる行動を取る人は冷遇される。
組織の中で十分に適応できない人を表現するのに発達障害という言葉は実に便利だろう。
私の実感では発達障害という言葉を頻繁に聞くようになったのは結構最近のことではないかと思う。
昔は自閉症、多動性障害、吃音など個別に語られて一緒にすることはなかったような記憶がある。
それがより直接的に社会不適合者としての烙印を思わせる発達障害、という言葉で括られるようになったのは、一つには冷戦が終わりを告げていよいよ資本主義一辺倒の世界になっていったこと、それともう一つにはネットの発達もあるかもしれない。
必ずしも社会の側の要請ばかりではなく、社会に適応できない本人も自分には障害があると認定された方が気が楽になる部分もあったとも考えられる。

そういう意味では発達障害という言葉も悪い面ばかりではなかったとも言えるかもしれない。
私もあえて私も発達障害だから、と自分で言うこともある。
一種開き直りでもあるわけだけれど、ただし、今考えたいのはこれからのことだ。

社会や集団に適応できないのがそんなに悪いことなのか?
それって障害なのか?

今は集団に帰属しなくても個人が個人のままで生きていける体制が整っている。
働き方も多様になった。
ものの売買もインターネットを通じて個人的にすることも容易になった。

集団に適応する能力が昔ほどは問われなくなっている。

じゃあ障害なんかじゃないんじゃない?

発達障害という人間として不完全ででもあるかのような言葉を使って集団に馴染めない人間を表現する必要があったのは集団組織で利益を追求してきた人間だ。

ということは集団組織の中で利益を追求する必要のない人にとっては必要のない言葉だとも言える。

私はずっと個人で生きてきた。
もちろん社会の恩恵は受けているので日本国民である権利を有すると同時に義務も有している。
それはでもあくまで公共の利益の範囲で資本主義的な利益追求とは異なる。それは個人の範囲で十分行えることだ。

人間社会は時代と共に変わってきた。現代の社会も大きな変革期にあるのだと思う。地球規模の環境問題もいよいよ深刻化している。現状の資本主義的な利益追求のやり方では人間の社会の存続さえ危ういものにしていることが明らかになりつつある。

前回の記事にも書いた通り、画期的な発明や発見をした天才はほとんど発達障害の特徴を持っている。
クリエイティブな仕事はほとんどが個人的なものだからだろう。

集団に馴染めない人間が必ずしもクリエイティブな能力が高いわけでもない、ということもある。
自分は社会にも適応できないし、特殊な能力もない、と落ち込んでしまうかもしれない。

でもそれも私は違うと思う。

新しい時代を切り開くのに必要なのは今までに使ってこなかった考え方だったり、方法だったり、広い意味でのツールだったり、なのだと思う。

今多様性を認めようという動きが盛んになってきているのもそのような社会の必然から来ていることだと思う。

たとえ今の社会の中で認められるような能力がなかったとしても、人にはその人固有の個性が必ずある。もし人が持っているものを持っていないのならそれも個性だ。
私自身、現状の自分にポンコツなところがあっても、それは障害なんかではなくて今のままで十分価値のある人間だという大前提で残りの人生を生きていきたい。

現状の社会に不適応な人間こそが新しい時代を切り開く鍵になると心から信じている。


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