見出し画像

京都について


京都が嫌いだ。

町並みはどこを切り取ってもため息が出るし、板前や着物姿の仲居が突然料亭からしゃなりしゃなり出てきたりするのにも目を奪われる。そうして惚けているうちに一本見知らぬ通りに迷い込めば、日の当たらない町屋の幽遠な整列に気が遠くなる。格子戸の奥から、過ぎた時代の話し声が聞こえてきそうな気配にも落ち着かないのだ。

末恐ろしいのは、夥しい数の仏像が飾られたお堂だった。頭上に11の顔、両側に40もの手を携えて、800年以上もの時をかけこの地で ”無” をつらぬく1001体の観音像。争いと荒廃の時代に極楽浄土を求めた民衆のよすがとして、あまねく救いの手を差し出しつづけているという。恐ろしい。恐ろしくて身の毛が逆立ってくる。私という存在は、なんと醜く不完全で脆弱なのかと思い知らされるのだ。長い時を経て人の手で丹念に作られながら、それらは直ぐに人の手を離れ、もはや人の手に負えなくなった。至大至高の力を宿してしまった1001体は、何人たりとも漏らさぬように憂世を照覧している。

私は震えを抑えつけながら無数の慈悲の眼差しから逃れるように北へ向かった。そして辿り着いた寺で今度は、枯山水の砂紋の中に沈められるような静寂が襲ってくるのだった。力尽きた葉っぱ達が、敷き詰められた小石の上に降りかかってくる。じゃりじゃりと音を立て恐る恐る進んでいくと、かの水路閣が現れた。

あぁ、まさか。
どうしようもなく、生きている。

この苔むした体に清らかな空気を取り込んでは、澄んだ水を放っている。まるで光合成のようだ。太陽すら、この水路を守るように私の目の前に立ちはだかってくるのだった。
眩暈を起こしそうなほど眩しい。



私はやっぱり、京都が嫌いだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?