入院治療を経て「考え方が変容した」話

西クリニックを知り。  南病院と出会い。
服薬、検査、カウンセリング、精神療法を受け、現在に至る。
外来治療と入院治療を経験させてもらった。あそこの病院食は美味しい。
精神科しかない(内科治療など、目立った食事制限の方がいない)から、なのか?なんでもでる。
   訂正、お好み焼きはでなかった。ちょっと残念。



「退院したら、3ヶ月は入院できない」と言われている。
病院(中央4階)に戻りたい。戻れない。
「現世(病院の外の社会)」は心地よい。


私は「自分ひとりでいる時間」が好きだ。実家では、気が休まらない。
はやく下宿に戻りたい。煩わしい。しんどい。
身体に合わない机、身体に合わない家具、身体に合わない生活様式。

自分に「難」があると、精神障害もそうだけど、肢体不自由は特に、
(人や家具等に対し)自分が合わせる(譲る)」ことが難しい場合が多い。
すでに行動様式が定められているようなところ(他者が生活する拠点など)とは折り合いが悪い。
自宅など「自分が心地よくいられるよう工夫を凝らしてもよい場所」ではなく、あくまで「一時的な避難場所」なので、仕方ないのだが。
 身体などに不都合がない人は「あたりまえにできる」行動を、
 私には「できない」「難しい」行動を、
 あたりまえにできる前提で生活様式が組まれているから、
私は疎外感を覚える。
自宅以外では「いちいち失望せずに済むように」を着ていなくちゃね…



日本の福祉は申請主義、と言われるように、
「できない側に「できない」と伝える努力を求める」の、私は反対だなあ
「できない」ことが少ない方々は、「伝える側」の葛藤を理解しにくいのかもしれないね。
 私なりの想いを列挙しておく。中途障害(肢体不自由)の視点から

・「できない」に気がつくと、いちいち毎回自尊心が傷つく(自分に失望する・頼まなくてはならない自分を卑下しがち)
・自分なりに適応して(何らかの工夫を施して)生活しているうちに、「できないという事実」を忘れることがある(工夫すれば「できる」もん、「できる」って考えたほうが心が楽だもん)
・人前で行ったとき「そういうやり方するんだ」と驚かれ、「自分なりの適応行動」に自信を持てなくなる(大衆がやっていることは「標準的な行動のひとつ」であって「常識」ではない、あなたは自分のことを「おかしい」などと思わなくていい)

 「思わなくていい」の言葉で「じゃあ思わないことにする!」と発想を転換させることは難しいよね。だから、
 私は「適応行動を身に着けたあなた」を尊敬します。
 少しでも生きやすくなるように努力できて、すごい。周りの人たちの協力を受けつつも自分で行動して、えらい。
「適応行動を身に着ける」のは義務じゃない。にもかかわらず、生きやすい行動を模索しているところ、私は尊敬します。


通院治療や入院治療を経て軽減したほうだけど、
それでも、まだ「(自分を含め)無意識のうちに、人に期待している」ようで…
だいぶ減ったと思っているけど、それでもまだ多いみたい。
裏切られたくないのに、私は人を信じるみたい。
勝手に期待して、勝手に裏切られた気持ちになって、勝手に人を信じられなくなっていく。  なにがしたいんだろうね



痩せる努力をしないなら、それなりの体型にしかなれないよね。
「痩せたい」とは思っても「食べる量を減らそう」等は思えないから、運動しないとだよね。
痩せている状態を維持するほうが楽。痩せる努力はできない。
私にはどちらもできない…
  体型を受け入れる努力。眠い。
  退院してからチョコを食べまくっている。顔が丸くなり顎が弛んでいる…。

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