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自己開示すること

熱海に来ている。この日航亭・大湯という湯場はとても良かった。熱海に来たきっかけは pha さんの熱海滞在記に触発されたからだ。東京で働くだけの日々に少し疲れていたということもある。いつもはやらないことを少しやってみたい気分であった。

熱海に来たのはたぶん10年くらいぶりだと思う。前回来たときには、昭和で時が止まった寂れた街だと思った。休日なのに、駅前に人影はまばらだった。まるで日本の未来を見ているかのような衰退ぶりで心が暗くなったことを覚えている。

10年ぶりに訪れた熱海は大きく変わっていた。駅前は、観光客があふれて活気があった。しかも、若い人たちが多い。どうやら、この記事にあるように、行政が本気で復活に向けた取り組みをおこなったためであるらしい。以前は廃墟のようなホテルが目立ったが、建物は建て替えが進んでいるようで、かつてのようなみすぼらしさは影を潜めた。

これはいろんな意味で明るいニュースである。高齢化し衰退する熱海が日本の象徴だとしたら、その復活劇は、日本にも希望がありうることの証となるからだ。いまいろんな意味でボロボロな日本ではあるが、案外あと10−20年くらいしたら、見事な復活を遂げているかもしれない。世の中では、一方向の動きが永遠に続くことはないからだ。

昔話で言えば、これも11年前に書いた自分のブログ記事である。

いままさに同じ気持ちになっていて、自分の変わらなさに苦笑いしている。私は来年には50歳になろうという歳だが、人格というものが持つ永続性というものはある種、感動的である。

ここ(note)では、人々は好んでエモーショナルな(今風に言えばエモい)文章を上げている。自分もなるべく自分に正直に文章を綴って行こうと思う。

この5年間の自分の人生を総括すると「仕事は順調で、経済的には恵まれたけど、自分を積極的に開示する機会が減っていき、心を開いて人と付き合うことが減ってしまった」と言っていいだろう。

私はだいたい2011年頃にベトナムから帰ってきて、日本で定職につかず、ブラブラしていた。母の家に厄介になりながら、エルムラボというオンラインサロンや Skype 相談というオンラインのキャリアカウンセリングのようなことをして、生き残ろうとしていた。

当然ながらそんなに稼げるわけではなかった。私は、母の勧めもあって、アルバイトをして生活を支えながら、行政書士を目指した。試験には合格して、無事行政書士にはなれたものの、行政書士の仕事でメシを食うのは思ったより難しかった。実質、IT業界でしか働いたことのなかった私は、他の業界でカネを稼ぐことの難しさをなめていた。IT業界はもう30年以上、右肩上がりの成長を続けてきた産業である。一方で、行政書士の世界は、そのIT化に押されて、定型的な仕事がどんどん減っている最中であり、新米が簡単に仕事が取れるはずがなかった。私は堪え切れず、たった1年で廃業した。2015年3月のことである。

このころ、私は貯金はほぼ尽きて、破産に近い状態だった(幸い、借金があるわけではなくただひたすらカネがないだけではあったけれども)。私はITの仕事を再開する以外に選択肢がなかった。

私は、吉祥寺にオフィスを構えるKRAYさんに拾っていただき、業務委託でいろんなウェブ開発の案件をこなした。ほぼすべて Ruby on Rails の案件である。KRAY には優秀なエンジニアが揃っていて、私は彼らから技術やプロジェクト管理について、多くのことを学んだ。このことについてはいくら感謝しても感謝しきれない。

だが、私はウェブ開発にどこか乗り切れない自分をずっと感じていた。これは10年以上前、 Rails を始めた時からずっと感じていた矛盾だった。上の11年前の記事を書いたときにも、私は Rails と取り組んでいたが、そのときもどこか煮え切らないものを感じていた。本質的に好きではない仕事を高い水準でこなすことを求められて、結局嫌になってやめてしまったのだろうと思う(この記事の後、私は、逃げるようにベトナムに向かうことになる)。

結局、2016年の秋ごろから、機械学習への興味が増していった。2017年の夏頃にはKRAYさんとの仕事をやめて、別の機械学習メインの職場に移った。機械学習では少し名の知れた会社である。2017年秋の話だ。そこで一年くらいウェブエンジニアとして、ときどき機械学習モデルをウェブシステムに組み込む仕事をしていたが、その後、機械学習モデルそのものを作るようになった。いまは、機械学習エンジニアとして働いている(契約も変わって、業務委託ではなくいまは正社員として働いている)。

この会社の名前はいまは伏せておく。まあ、秘密にしても仕方ないのだが、この会社は、SNSとはあまり相性がよくなさそうだからだ。ここらへんの情報開示はおいおい考えていく。

正直、この会社のエンジニアの大多数は東大をはじめ、有名大学・大学院卒業の人たちばかりで、極めて優秀だ。私も自分なりに勉強はしているつもりなのだが、なかなか追いつかない。後から入社した、自分よりはるかに若い人のほうが自分より優秀で、驚くべき品質・速度で仕事をこなすのを見て、焦りを感じたのは一度や二度ではない。

まして、私はいまやアラフィフである。エンジニアの中核は30歳前後の人たちである。自分より20歳若くて、かつ自分より優秀なエンジニアたちと毎日仕事をしているのだ。これでプレッシャーを感じないほうがおかしいだろう。ふと弱気になるときもある。

私は「○歳になったらもう能力を開発するのは無理」という俗説に安易に与するつもりはないけれども、その一方で、人間に一定の生物学的限界が存在することを否定するつもりもない。人はやがて老いて、最後は死ぬ。その運命から逃れられない。

50歳を迎えようとする自分にどこまでいまの熾烈な仕事が続けられるのだろうか?この答えに明確に回答できる人は誰もいないのではないだろうか。まさにケースバイケースだ。人はそれぞれ生まれつきの能力は異なるし、老化の速度も異なる。同じ50歳でも、若々しい人も老いぼれた人もいるだろう。

だから、いまの自分には、挑戦する、としか言えない。やってみて、ダメならそのとき考えるしかない。いまは、自分の精一杯をやるしかない。

『「自分のまわりはアホばかり」症候群』で書いたとおり、いま自分より優秀な人たちに囲まれて、激しいプレッシャーを感じているのは確かなのだが、この記事とはひとつだけ異なる状況がある。それは、いまのところ、この状況から逃げ出そうとは思っていないことだ。何が違うのか考えてみたが、一応、暫定的な答えとしては、私は「データ処理が好きだから」ということなのかもしれない。ウェブ開発は好きではなかった。だから逃げた。しかし、データ分析は好きだから、いまの仕事をやめようとは思ってはない。

人生は螺旋階段のようなものだ、とよく言われる。上から見ると、人は同じところをぐるぐる回っているだけに見える。しかし、横から見れば少しずつ上昇していく。まったく同じ場所は通過しないのだ。今回起きた本質的に新しいことは、いまは私は自分の好きな仕事をしているという点である。

私は、どうもシステムを作ることより、データをいじくりまわすことのほうに興味を感じているらしい。自分より優秀な人たちが大勢いて、そういう人たちに囲まれて仕事をしている以上、仕事の遂行に一定の品質・速度が求められる。自分が成長する上では最適な環境にいるのは確かだが、同時に、「戦力外通告をいつ受けるかわからない」といういまだかつてない強いプレッシャーを感じることにもなる。これはなかなかつらい。

だが、いまは、いまの場所にとどまろうと思う。私はデータ分析・機械学習が好きだから、もし、戦力外通告を受けたら、別の場所を探そうと思う。きっと自分にもっとふさわしい環境・仕事があるに違いない。

上には上が限りなくいて、下もまた然りである。優劣を比較することにはあまり意味がない。それより大切なのは、自分に合った環境・仕事を探すことだ。天才には天才なりの、凡人には凡人なりの仕事がある。それは神が定めたことであり、人はただ自分の運命に従うしかなく、また、それで十分に幸せになれるのである。われわれはそういう風に造られ、社会はそうやって回っているのである。

この5年間、私は夢中で走り抜けてきた。一番、大きな目標は破産同様の自分の経済状態を立て直すことだった。その目標はほぼ達成した。その分、私は社会へのアウトプットがおろそかになったと思う。この5年間に書いたブログ記事はわずかでしかない。これはよくない。なぜよくないかというと、自己開示を積極的に行わないと、他者との心のつながりは生まれず、心のつながりがなければ、幸せはやってこないからだ。

実際、いま私の心は乾ききっている。正直、いろんな人たちとつながりがあった、ベトナム時代のほうがよほど生きている実感があった(逆にあの頃はまったくカネを稼げなかったのだが・・・)。

note でのエモい話とともに、Qiita などでは、技術的な記事も発信して行きたい。いまの自分はアウトプット量が圧倒的に足りない。これを増やしていくのが今後1年間の課題である。

熱海は、夕方になり曇り空から晴れ間がのぞいてきた。

(熱海のすてきなコワーキングプレース naedoco にて)







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