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2019年のトゥルーエンド(天気の子感想)

※ラストまで完全にネタバレしています。

天気の子、こういうエンドだったらもっと秒速五センチメートルぽいなと考えていた。

陽菜が人柱となることで東京には日差しが戻ってくる。


東京で大学生になった帆高は思ったより平凡な自分に落ち込んだりしながら過ごしている。


だがふと大学構内を出たところで日差しが降り注ぐ。美しい東京の情景。


日差しに触れるたびいつも陽菜を思い出しここで生きていこうと気持ちを新たにするのだったーー

一番最初に通るバッドエンドぽい。(沙耶の歌でいう病院エンド)

そうすると、映画本編は最初にたどりつくハッピーエンド。

ハッピーエンドだけどゲームだったら須賀の娘や瀧の祖母は死ぬと思う。(これがトゥルーエンドじゃないとだめなんだと思わせる原動力になる。ハッピーエンドというか、今でいうメリバに近い)

トゥルーの場合は天気神社に伝わる伝説の起源を探り、人柱を回避する方法を見つけ出す。


伝承をたどると人々の気持ちを集めて身代わりとできることがわかり、サイトを使って呼びかけて、みんなの願いが届いて東京はもとの姿を取り戻す。が、陽菜からこの夏の記憶は消える。


でもなんやかやあってここで一緒に生きていこうとなる。(トゥルーなので物語の根本的な謎が明かされ、犠牲も最小限で済み、ヒロインとも一緒にいられる)


こんな風に「天気の子」は選択制のゲームを想起させるようなストーリーになっている。家出の詳細が語られないところなんかも、匿名の操作キャラぽい。


一部界隈では盛り上がっているようだ。

https://togetter.com/li/1379288

でも個人的には00年代のセカイ系と似ているがゆえに、違う部分が気になる。

00年代の作品は、選ぶことにより零れ落ちるものに自覚的な作品が目立ったけれど(たとえば細田守版「時をかける少女」)「天気の子」にはそんな余裕がないように見える。

トゥルーエンドには「みんなの協力」が必須だと思うのだけれど(たとえば「ひぐらし」)この物語の彼らは何回やり直してもそっちルートに入る気がしない。

東京が水没しても、海抜の低い位置に住んでいた女性はちゃんと引っ越せていたり、犠牲が回避されている。

選ぶことによる悪影響は描かれないので、他の選択だったなら?という思考が生まれにくい。主人公帆高の選択に対して大きな影響を与えるような(陽菜以外の)他人はいない。

選ぶことによる限界を学ぶのは、大人への成長の過程でもある。

これは子供向けの物語だから大人への成長までを描く必要はなく、若い人たちが元気づけられるならそれでいいのかもしれない。

でも、主人公たちの「余裕のなさ」には着実にこの10年で貧しくなった社会の影響が見える。

選択肢を勝手に読み取っているのは往年のリテラシーのある人で、実際にこの映画を見る若い人たちは他のエンドのことを想像もしないだろう。

2019年に、トゥルーエンドはもうない。手の届くものだけを守るしかない必死さだけがある。

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