10年振りに灰谷健次郎作品を読む 「少女の器」
ちゃんと私たち傷つけ合ってるのよ。確認しつづける母と娘の物語
「ママは存外にいいかげんなところがあるわ。親と子は平等だとか、親の人生と子供の人生は別々だとか、かっこのいいことばっかりいってるけど、じっさいにやってることはその逆さのことが多いのよ。ママ、それに気がついていないでしょ」
10代のころ、灰谷健次郎というと、お説教くさいイメージがあった。代表作の「太陽の子」なんて、それはもう素晴らしい作品なんだけども、どうしても「社会派」「教育的」というイメージが強かった。
しかし、10年ぶりに読み返して、度肝を抜かれた。子供の細やかな心の揺れが、それはもう切実に伝わってくる感じ。名子役による無言の演技みたい。
その最たる作品が「少女の器」だ。
一人の感受性豊かな少女が、母と交わす日常の会話。
別居している父と二人で会うときの会話。
同級生のボーイフレンドとの会話。
それらを、淡々と綴った物語。
中学3年生の少女は、平然な顔をしながら毒を吐く。母に向かって、「思春期だの反抗期だの、そんなことばをつかってわたしたちを見る大人ってつまりは怠け者なんだ」とさらっと言う。
母は、感心したような顔で切り返す。
「あなたに満足してもらうような生き方をしようと思えば、人生疲れてしまうわ」
そんなやり取りが全編にわたって繰り広げられる。ふたりは、親子って仕方ないわねとため息をつきながら、嫌味を言い合う。時に事件が起き、それも日常の一部としてつづいていく。
少女と母は、さっぱりしているように見せかけて、お互いをひどく傷つけないよう、ものすごーく細やかに心を配っている。それは、単に「とにかく傷つけないように」ということではない。言いたいことはちゃんと言う。でも相手の人生の選択そのものは否定しない。2人だけのルールが、会話から浮き彫りになってくる。
母と娘のやり取りは、お互いが味方であることの確認作業でもあり、一緒にいたら傷つけ合うのは仕方ないという確認作業でもある。「傷ついていないわよ」より、「まあ傷ついてるよ」がふさわしい関係もあるらしい。
少女は、自立心が強い分、母と娘の感情がきれいに切り離せないこともよく知っている。自分にとっても、母にとっても。
それは、「お互い独立しているけど影響し合っている」みたいな甘っちょろい話ではない。まるで、ひとつの心を2人で担っているかのような。私は今こっちで悲しむから、あなたは冷静な判断をお願い、というような感覚のほうが近い。
2人の人間が一緒に暮らすというのは、そういう仕組みをはらんでいるんだな、としみじみ感じた。なかなか大変だ。2人って、とってもバランスが悪いのかもしれない。
こんな調子で、他にもたくさんの会話が綴られている。父親やボーイフレンドとのエピソードも、同じくらいたくさん織り込まれている。
もうひとつだけ、おすすめポイントがある。ボーイフレンドの上野くんが、なんともいい。アルコール依存症で入院中の母を「自分の敵」と呼びつつ、毎週1分だけ見舞いに行く。少女が、なんで敵を見舞うのよと聞くと、スラスラと答える。
「(母親の)心の中におきたトラブルのもとは、おれとオヤジや。オヤジの極道とおれのゴンタが、おれのおかんを病気にさせたというわけや。これ、考えたらけったくそ悪いやないか。敵に借りつくってんねんさかい。借りは返しとこやないかちゅうのがおれの理屈や」
病気が治ったら、またおかんと戦争をするらしい。うらみがあるさかいなぁ、あのおばはんには。
この上野くん、少女にめいっぱいやさしく、めいっぱい厳しい。いまの時代の小説に、きっとこういう男の子は出てこないだろう。暴力にさらされながら自分の倫理を構築してたくましく生きる、そういう男の子だ。
灰谷作品って、社会の善悪をバーンと切り分けるイメージがあったけれど、「少女の器」は違った。
10代のころは琴線に触れなかった
ここまで絶賛したけれど、10代のころ、こんなに心揺さぶられた記憶はない。「太陽の子」や「砂場の少年」のような、社会に対して正面から問題提起している作品が好きだった。
当時、この「少女の器」も読んだけれど、「なるほどー」とか、「ふーん、そういうもんだよねえ」くらいの感想しか抱いていなかったように思う。
私も、感受性豊かな少女だったんだろうか。それとも、自分のことに手一杯で共感できなかったのか。(たぶん後者)
少女は、数々の経験を経て、「人を、あるがまま見ることができるのは知性もあるだろうけど、優しさというものもあると、思うようになった」らしい。
そうかー。どれだけ聡明なんですか、あなた。少女の器、底が知れない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?