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小澤不等式の導出

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 この記事は、堀田量子の第 7 章の後半の不確定性関係の話題とそれについての演習問題とを合わせた内容を「私ならこういう感じに書く」という試みです。数式に用いる記号は改変してあります。文体は「EMANらしく」常体にしています。


概要

 「ハイゼンベルクの不確定性原理」と呼ばれる関係式がある。これは粒子の位置と運動量を同時に正確に読み取ることが出来ず、知りうる精度に限界があることを示したものである。ハイゼンベルクによって 1927 年に書かれた論文では次のような形で登場する。

$$
\delta x \, \delta p \ \sim \ h \tag{1}
$$

 これは観測のための光子を粒子にぶつけたときの波長の変化や、光子の位置を捉えるレンズの解像度についての思考実験から推測された式である。彼はミクロな対象の測定にはプランク定数$${ h }$$程度の限界があることを早々と見抜いたのだった。当時の量子力学はまだ発展途上にあったが、このような限界が存在することを取り入れた理論としてまとめられるべきであり、それが今後の指針となるであろうと述べたのだった。

 そのすぐ後にアール・ケナード(1927)やヘルマン・ワイル(1928)によって理論的な導出が行われたが、実はハイゼンベルクが意図していた通りの内容を表すものではなかった。しかし式の形が似ていたために、両者は混同され続けた。

$$
\Delta x \, \Delta p \ \geqq \ \frac{\hbar}{2} \tag{2}
$$

 この式は「ケナードの不等式」と呼ばれている。

 ケナードの不等式というのは、量子力学的な揺らぎによって位置や運動量の測定の不確かさの積がある程度より大きくなってしまうことを表している。これについてはさらに翌年(1929)にハワード・ロバートソンがもう少し一般的に他の物理量の組み合わせについても成り立つ式を導き出している。

$$
\Delta A \, \Delta B \ \geqq\ \frac{\big| \langle [\hat{A},\hat{B}] \rangle \big|}{2} \tag{3}
$$

 この式は「ロバートソンの不等式」と呼ばれている。この式に位置と運動量を表す演算子を代入したときに成り立つのが (2) 式だというわけだ。

 ハイゼンベルクはこのような理論的な導出が行われたことを喜んで、自身の論文でもたびたび引用するようになった。その一方、彼は、「測定を行うためには必ず光などの粒子をぶつけて結果を見なくてはならず、その結果としてどうしても測定対象が影響を受けるのを避けられないために、このような測定の限界が生じる」というイメージを描いており、たびたびそのような説明も行っていた。現代でも一般向けの科学解説の本ではそのような説明が見られる。

 さて、ハイゼンベルクの説明にも一理あるのだが、ケナードの不等式が意味している内容とはどこか違っているようにも思える。あるいは違っているように見えるだけであって、深いところでつながっているような気もしてくる。位置や運動量だけなら繋がりがありそうにも見えるのだが、スピンの測定のような場合には測定対象に対して必ずしも何かをぶつけなければ対象の状態を測定できないというわけでもなく、謎は深まるばかりだった。そんな具合にして、70年以上もの間、誰も両者のつながりを明確に説明できなかったのである。

 やがて 1980 年頃から重力波の検出装置のための超精密な測定限界を議論する必要が出てきて、この問題を放置しておくわけには行かなくなった。そして 2003 年になって小澤正直によって理論的に導かれたのが次の「小澤不等式」と呼ばれる式である。

$$
\varepsilon(x) \, \eta(p) \ +\ \varepsilon(x) \, \Delta(p) \ +\ \Delta x \, \eta(p) \ \geqq\ \frac{\hbar}{2} \tag{4}
$$

 ごく簡単に説明しておくと、$${ \varepsilon(x) }$$が位置の測定誤差であり、$${ \eta(p) }$$はその測定によって起こる運動量の擾乱である。これはハイゼンベルクの不確定性原理の拡張であり、反論でもある。状況によってはハイゼンベルクが主張した限界よりも高い精度で測定を行うことが出来ることを表している。そしてそれは実験でも証明された。

 注意してほしいのは、これはハイゼンベルクが行った説明を (2) 式や (3) 式に当てはめることへの反論であって、「ケナードの不等式」や「ロバートソンの不等式」は少しも間違っていないし、修正する必要はないという点である。これらはちゃんと定義した通りに数学的に導かれたものだからだ。


 (4) 式は見慣れない記号が使われていてどういう意味であるかが分かりにくいし、そのせいでハイゼンベルクの考え方からどう変わったのかの比較もしにくい。なぜ記号の種類が増えているかというと、現実の観測の文脈に沿った形で記号が定義されているせいである。そもそもハイゼンベルクの考え方には厳密な定義が足りていなかったことが問題なのだが、比較のために現代的な解釈をするのなら、ハイゼンベルクは次のような式が成り立つと主張していたことになるのかもしれない。

$$
\varepsilon(x) \, \eta(p) \ \geqq\ \frac{\hbar}{2} \tag{5}
$$

 そして、この式は正しくなかったのである。(4) 式の左辺は (5) 式に比べて、第 2 項や第 3 項が余分に付いている。これらのお陰で、第 1 項の値を従来考えられていたよりも小さくできる可能性があるというわけだ。ちなみに (4) 式のどの項も定義からして負になることは出来ない。

 さて、(4) 式とはまた違う設定を採用した場合には次のような式が成り立っていることも言える。

$$
\varepsilon(x) \, \varepsilon(p) \ +\ \varepsilon(x) \, \Delta(p) \ +\ \Delta x \, \varepsilon(p) \ \geqq\ \frac{\hbar}{2} \tag{6}
$$

 これは「もう一つの小澤不等式」「同時測定の小澤不等式」などと呼ばれたりする。$${ \eta(p) }$$だった部分が代わりに$${ \varepsilon(p) }$$になっているだけだが、$${ \eta(p) }$$と$${ \varepsilon(p) }$$とが同じ意味だというわけではない。式の形がそっくりなのも、ある種の偶然である。

 以下では小澤不等式の導出を行う予定だが、その準備として最初に (3) 式のロバートソンの不等式も導出することにする。ロバートソンの不等式の助けも必要になるからである。全ての記号の意味はそれぞれの導出の手前で説明することにしよう。

標準偏差の定義

 統計学の分野では標準偏差という概念がよく用いられる。これは多数の測定値データにばらつきがあるときに、そのばらつき度合いを評価するためのものである。物理量 A はたとえ同一の状態を多数用意したとしても量子力学的なばらつきによって毎回測定値がばらつくことになる。その多数の測定値のデータを使って標準偏差が求められるのである。物理量 A の標準偏差$${ \Delta A }$$の計算式は次の通りである。

$$
\Delta A \ =\ \sqrt{\langle (A-\langle A \rangle)^2 \rangle} \tag{7}
$$

 この意味を考えてみよう。$${ \langle A \rangle }$$は多数の測定値の平均値であり、今回は期待値と呼んでも同じである。$${ A-\langle A \rangle }$$というのは毎回得られる測定値の期待値からのズレを意味している。このズレの平均がどれくらいかを知りたいわけだが、そのまま平均すると必ず 0 になってしまうだろう。期待値よりも大きい方向へズレることも小さい方向へズレることもあって打ち消し合ってしまうからである。それを防ぐために 2 乗してやって全てを正の値にしてから平均値を計算するといい。それが$${ \langle (A-\langle A \rangle)^2 \rangle }$$の部分である。この値は「分散」と呼ばれる。そして先ほど 2 乗したせいで値が大きくなりすぎた分を修正するために平方根を取ったものが標準偏差だというわけである。別に 2 乗したり平方根を取ったりしなくても絶対値を使ってやっても良かったのかも知れないが、このように定義してやると色々と便利な関係が成り立つことが言えるので愛用されているのである。

 密度行列が$${ \hat{\rho} }$$である量子状態のときの物理量 A の標準偏差を計算してみよう。(7) 式の定義に従って、期待値の部分を次のように書き直して変形していけば良い。

$$
\begin{aligned}
\Delta A \ &=\ \sqrt{ \mathrm{Tr}\Big[ \hat{\rho} \Big( \hat{A} - \mathrm{Tr}\big[ \hat{\rho} \hat{A} \big] \hat{I} \Big)^2 \, \Big] } \\[3pt]
&=\ \sqrt{ \mathrm{Tr}\Big[ \hat{\rho} \Big( \hat{A}^2 - 2 \hat{A} \, \mathrm{Tr}\big[ \hat{\rho} \hat{A} \big] + \Big( \mathrm{Tr}\big[ \hat{\rho} \hat{A} \big] \hat{I} \Big)^2 \, \Big) \Big] } \\[3pt]
&=\ \sqrt{ \mathrm{Tr} \Big[ \hat{\rho} \hat{A}^2 \Big] - 2 \, \mathrm{Tr}\big[ \hat{\rho} \hat{A} \big] \, \mathrm{Tr}\big[ \hat{\rho} \hat{A} \big] + \mathrm{Tr} \big[\hat{\rho}\big] \Big( \mathrm{Tr}\big[ \hat{\rho} \hat{A} \big] \Big)^2 } \\[3pt]
&=\ \sqrt{ \mathrm{Tr} \Big[ \hat{\rho} \hat{A}^2 \Big] - 2 \, \Big( \mathrm{Tr}\big[ \hat{\rho} \hat{A} \big] \Big)^2 + \Big( \mathrm{Tr}\big[ \hat{\rho} \hat{A} \big] \Big)^2 } \\[3pt]
&=\ \sqrt{ \mathrm{Tr} \Big[ \hat{\rho} \hat{A}^2 \Big] - \Big( \mathrm{Tr}\big[ \hat{\rho} \hat{A} \big] \Big)^2 } \tag{8}
\end{aligned}
$$

 同じ密度行列$${ \hat{\rho} }$$のときの別の物理量 B についてもこれと同じ形の計算で$${ \Delta B }$$を計算してやることが出来る。これから証明したいのは、そのときの$${ \Delta A }$$と$${ \Delta B }$$との積に次のような制限が入るという事実である。

$$
\Delta A \ \Delta B \ \geqq \ \frac{\Big| \mathrm{Tr} \Big[ \hat{\rho} \, [\hat{A},\hat{B}] \Big] \Big|}{2} \tag{9}
$$

 これは上で紹介した「ロバートソンの不等式」と同じものである。(3) 式の右辺とは形が違っているが、この (9) 式の右辺は混合状態でも成り立つ形で表現してある。そのことについてちゃんと説明しておこう。$${ \hat{\rho} }$$が純粋状態であれば$${ \hat{\rho} = \ket{\psi} \bra{\psi} }$$という形で書けるので、

$$
\begin{aligned}
\mathrm{Tr} \Big[ \hat{\rho} \, [\hat{A},\hat{B}] \Big] \ &=\ \mathrm{Tr} \Big[ \ket{\psi} \bra{\psi} \, [\hat{A},\hat{B}] \Big] \\
&=\ \mathrm{Tr} \Big[ \bra{\psi} \, [\hat{A},\hat{B}] \ket{\psi} \Big] \\
&=\ \bra{\psi} \, [\hat{A},\hat{B}] \ket{\psi} \\
&=\ \langle [\hat{A},\hat{B}] \rangle \tag{10}
\end{aligned}
$$

のようになり、(3) 式の書き方になる。従来の量子力学ではあまり混合状態というのは重視されてこなかったので (3) 式のような書き方をしている教科書が多いのである。しかし以下の説明ではどんな状態でも表せる現代風の形で書いていくことにしよう。このような違いがあっても証明方法はほとんど変わらない。トレース特有の性質を使って式変形をしている箇所が多いように見えるかもしれないが、純粋状態を仮定してやった場合にはもっと簡単に等価な式変形ができるはずである。

 なお、この (9) 式の関係は全く数学的に導かれるものであって、物理的な考察が入る余地がない。興味が無ければ読み流してもらってもいいだろう。この (9) 式の導出方法には幾つかの流儀があるのだが、この記事は堀田量子のガイドの一部なので、堀田量子第7章の演習問題の解答のところで使っている流儀をさらに丁寧に解説するという方針で進めよう。

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