見出し画像

文常院の明和史コラム #2 期生呼びと明和高校(後編)

 文常院の明和史コラム。このコーナーでは、修士課程まで行って明和史を研究している私が、直接研究には使えないけど面白いなと思った明和高校の歴史をテキトーにまとめていきます。話のタネにでもどうぞ。


 本コラムは(後編)です。(前編)では、期生呼びの概要を説明していますので、まずはそちらからお読みいただければ幸いです。


現役明和生は何期生なのか?

 現高3が75期、現高2が76期、現高1が77期。皆が疑いもせずに使っているこの数字ははたして本当に合っているのでしょうか?自明かと思われていることを問い直す力は課探でもきっと役に立つでしょうから大切にしてほしいわけですが、結論から言うと、前編で説明した通りの定義によって、現高1=77期という期数は疑う余地なく正しいことがわかります。一応、復習しておくと、1948年に明倫高校(旧明倫中)と県一女子高(旧県一高女)が統合して誕生した明和高校では1949年3月に最初の卒業式が行われ1期生が卒業。1950年は2期生、1951年は3期生……というふうに数えていけば、2025年には77期生が卒業するので、2025年に卒業する現高1が77期となるわけでしたね。
 ところが、全国の高校を見渡してみると、新制高校が誕生した戦後学制改革時に期数の起点を持ってくるのではなく、戦前の旧制中学校や旧制高等女学校の創立後初の卒業式の年に起点を持ってくる高校が少なくないことがわかります(前編参照)。そうであれば、明和高校だって明倫中学や県一高女の創立後初の卒業式の年まで期数起点を遡らせることは不可能ではないはずです。それでは、戦前まで期数起点を遡らせた場合の現役明和生の期数は一体何期になるのでしょうか?

戦前まで期数起点を遡上させるうえでの問題点

 考えてみればすぐにわかることですが、任意の代の期数Cを算出するには、その代が卒業する西暦Xから、その学校で初めて卒業式が行われた年aを引き、1を足せばいいのです。つまり、期数算出の基本公式は「C=X-a+1」で、明和高校の場合、定数aは1949となります。戦前まで起点を遡らせたい場合、定数aの値を戦前の西暦にすればいいのでは?と思ってしまうのですが、実はそこには大きく分けて2つの問題があります。
 1つは、定数aの値、つまり創立後初の卒業式が行われた年を正しく把握しなければならないということです。戦前の学校制度・修業年限(何年で卒業するか)は当然のことながら現在とは異なりますから、もちろん、「a=創立年+3」ではないのです。現在の高等学校は、戦前における中学校(旧制中学校)や高等女学校にあたりますが、旧制中学校の修業年限は1886年の中学校令施行以降原則5年(1943~1945年は4年)、高等女学校の修業年限は1899年の高等女学校令施行以降原則3~5年(学校によって異なる)となっており、学校令施行以前に創立していたり、各種学校を起源にしていたりすると修業年限はさらに複雑です。こうした学校制度や自校の歴史を踏まえたうえで、創立後何年後に初の卒業式が行われたのかを慎重に算出する必要があります。
 もう1つは、(これは厳密には戦前に期数起点を遡らせる場合に限らない話ではありますが)本当に現在まで途絶えることなく毎年1回だけ卒業式が行われてきたのかということです。1年に2回卒業式が行われたり、卒業式が行われていない年があったりしたら、単純に引き算しているだけの期数算出の基本公式は成り立ちません。学校制度が今と同じである戦後にそんなイレギュラーなことがあれば、必ず学校史に大々的に書かれるでしょうから、その事例の発見は容易なのですが、戦前、特に明治期には時々1年に2回卒業式があったり、大正から昭和期にかけては修業年限延長により卒業式が行われない年があったりする場合があるので、学校史・同窓会名簿の細かい記述にも注意が必要です。また、戦時中と終戦直後は修業年限短縮・回復かつ学制改革における新制学年への移行のあおりを受けて期数換算がややこしくなる場合があります。つまり、期数算出の応用公式としては、上記のような事情で期数が西暦との1次関数ではなくなることを考慮して、各校の期数事情を反映する変数Yを入れ込んだ「C=X-a+1+Y」というものを提示することが望まれます。

明和(明倫・県一)創立後初の卒業式はいつ?

 明和高校の戦前起点の期数を算出するために、まずは期数算出公式のaを求める、つまり、創立後初の卒業式がいつ行われたかを考えましょう。わかりやすいのは県一なので、県一の方から見ていくことにします。
 愛知県第一高等女学校(創立当時は愛知県立高等女学校)は1903年3月に開校し、最初の生徒として本科第一学年・第二学年各40名、技芸専修科第一学年40名が入学しました。本科が高等普通教育を標榜しているのに対して、技芸専修科は女子に必要な技能習得を目標とした学科です。この時、県一における本科の修業年限は4年(後に5年となります)、技芸専修科の修業年限は2年でした(技芸専修科は1913年3月に廃止)。よって、県一創立後、最初に卒業を迎えたのは技芸専修科の生徒で、1905年3月に卒業しました。これが県一初の卒業式です。変な感じはしますが、本科の最初の卒業生は県一2期生になるわけです。
 続いて県一よりややこしい明倫です。私立明倫中学校は1900年4月に開校しました。何がややこしいのかと言うと、1901年3月が創立後初の卒業式になるからです。修業年限は?と思ったあなたは鋭い!修業年限は(はっきりとは校史に書かれていないのですが)おそらく原則通り5年だったはずですが、1年目から卒業式が行われているのです。これは、明倫中学校の前身である武揚学校の生徒を試験のうえ適当な学年に編入したので、開校当初から最終学年の生徒がいたからです。とすると武揚学校の最初の卒業式の年を起点とすることも可能なんじゃないかと思えてきますね。従来、武揚学校については史料の乏しさからその内実はほとんど不明だったのですが、私が研究を進める中でいくつか蒐集できた史料から少しばかりその内実が見えてきました。その中で武揚学校の修業年限も判明しました。1890年に開校した武揚学校の修業年限は幼年科が3年、青年科が2年です。この年限通りに修業した生徒がいた場合、武揚学校最初の卒業式は1892年に行われたはずです。
 以上をまとめると県一起点なら1905年(a(k)=1905)、明倫起点なら1901年(a(mr)=1901)、武揚学校起点なら1892年(a(b)=1892)が創立後初の卒業式が行われた年になると言えます。

明和(明倫・県一)における期数イレギュラー

卒業式がなかった年

 続いて、明倫・県一で期数換算を行う場合、基本公式でいいのか、それとも応用公式が求められ、変数Yを算出する必要があるのかどうかについてです。校史をつぶさに見る限り、卒業式が1年に2回あるようなことは確認されません。そもそも1年に2回も卒業式を行ってしまうイレギュラーな時代は明治中期以前の学校制度が整備され始めた段階より前に見られるような事例なので、明治後期創立の明倫や県一に関してはあまり気にしなくてよさそうです。
 では、卒業式が行われなかった年はあったのでしょうか。戦争で物理的に行えなかった、というのは除くものとして、該当しそうなのは県一の修業年限が4年から5年に延長されたタイミングです。県一本科の修業年限が4年から5年に延長されたのは1922年4月の入学生からです。彼女らが卒業するのが1927年3月。彼女らの1つ上の先輩は4年修了になるのでその前の本科の卒業式は1925年3月となり、1926年には本科の卒業式は行われていません。
 ただし、当時、県一には本科以外に専攻科(修業年限3年、1922年設置、1927年廃止)が存在し、専攻科の卒業式は、専攻科の卒業生が存在した1925~1927年の間、毎年行われていました。ですから厳密に言うと1926年に県一の卒業式はありました。しかし、同窓会名簿では、専攻科の卒業式は1925年のものを第1回と数え、本科と合算していません。本科との合算になっている技芸専修科と違い、専攻科は高女卒業者を対象としたいわゆる高等教育課程であるため、卒業式の回数を分けたものと思われます。
 よって、本科での通期換算を標準として考える場合、1926年に一度卒業式が行われていない年が混じっていることを忘れないようにしなければなりません。

戦時中~終戦直後の混乱

 変数Yが存在する可能性を探して、次は、戦時中~終戦直後の修業年限短縮・回復かつ学制改革における新制学年への移行によって、期数換算がどうなったのかということについて見ていきたいと思います。
 その問題を考えるために作成したのが、以下に掲載する「旧制中等学校から新制高校への移行期における入学期生別卒業回数 明和高校ver.」という図です。

【図】旧制中等学校から新制高校への移行期における入学期生別卒業回数 明和高校ver.

 この図は、便宜上、入学基準を「期生」で呼称し、卒業基準を「回生」で呼称しているので、その点だけ注意してください。以下、この図の用法に沿って解説します(解説が予想以上に長く、文章だと分かりにくくなったので要は何が言いたいかをさっさと知りたい人は「図の解説」は飛ばして「小括」まで下ってください)。

図の解説

 戦時修業年限短縮の影響を受け始めるのは、明倫45期生、県一本科39期生からです。この期に所属する生徒のうち一部は4年で卒業することになりました。したがって、明倫45期生の中に明倫44回目の卒業式で、県一本科39期生の中に県一39回目の卒業式で卒業する者が出てきたのです(県一では前章で見た通り、技芸専修科の卒業式が本科に先行したため、本科n期生の卒業式は本来、県一n+1回目の卒業式となるはずです)。これを期生呼びの厳密な定義に照らし合わせれば、それぞれ明倫44回生、県一39回生となるはずですが、同窓会名簿では入学基準の同期集団での期数換算を重視したためか、短縮年限卒業生はそれぞれ明倫44回目、県一39回目の卒業式で卒業したにもかかわらず、明倫45回生、県一40回生として掲載されています。
 次の年(1945年3月)、残りの明倫45期生、県一39期生は、それぞれ明倫45回目、県一40回目の卒業式で卒業し、明倫45回生、県一40回生となりますが、1つ下の学年は否応なしに修業年限が短縮され全員が4年で卒業することとなったため、5年生と同じタイミングで卒業することになりました。つまり、明倫46期生、県一40期生も、明倫45回目、県一40回目の卒業式で卒業したことになります。しかし、これも同窓会名簿では入学基準を重視して掲載しているため、それぞれ明倫46回生、県一41回生となってしまっています。
 次の年(1946年3月)には戦争がすでに終わっていたため修業年限は元に戻されるのですが、一旦短縮が決まっていた以上、希望者は短縮年限で卒業できることになっていました。明倫47期生、県一41期生の中にも4年で卒業する者がおり、彼ら彼女らは明倫46回目、県一41回目の卒業式で卒業したのですが、入学基準を重視したのか、はたまた前年に強制短縮卒業させられた代との混同を避けるためか、卒業式回数通りの期数は付されず、同窓会名簿ではそれぞれ明倫47回生、県一42回生とされています。
 そしてさらに話をややこしくするのは、その次の年(1947年3月)、修業年限5年を選択した明倫47期生、県一41期生が卒業した時です。ここで彼ら彼女らは、なぜかこれまでの入学基準重視で期数を付ける慣例から逸脱してそれぞれ明倫48回生、県一43回生として同窓会名簿に記載されてしまっています(卒業式の回数は明倫で47回目、県一で42回目)。もうむちゃくちゃです。同じタイミングで1つ下の明倫48期生の4年卒業組が卒業していますが、彼らは明倫49回生として同窓会名簿に記載されています。県一42期生に短縮卒業生はいなかったようです。
 次の年(1948年3月)は旧制中学・高等女学校最後の年です。翌月から新制高校に切り替わり、そのまま新制高校3年生に進級する者と、旧制中学5年・高等女学校5年の修業年限で卒業する者とに分かれました。旧制の5年で卒業する明倫48期生と県一42期生は、それぞれ明倫48回目、県一43回目の卒業式で卒業し、同窓会名簿には明倫49回生(前年に短縮卒業した同期と同じ49回生)、県一44回生として掲載されました。この時、同時に明倫49期生のうち4年修業を希望する者も卒業し、明倫50回生として同窓会名簿に掲載されています。
 さて、明倫48期生、県一42期生のうち、新制高校3年生へと進級を希望したものは、翌年(1949年3月)卒業を迎えますが、この時にはすでに明和高校が誕生しており、彼ら彼女らは明和高校の1回目の卒業式で、はえある明和高校1回生として卒業していきました。
 しかし、旧制中学・高女の後処理はまだ終わっていません。まず、明倫49期生、県一43期生は、1948年度には新制高校2年生となっていましたが、旧制では5年生にあたるため、希望すれば年度末をもって卒業することができました。希望者は明和1回生と同じタイミングで卒業することになったわけですが、彼ら彼女らは新制高校の課程を修業したわけではないので、同窓会名簿上ではそれぞれ明倫50回生(前年に短縮卒業した同期と同じ50回生)、県一45回生とされています。
 また、1949年4月からは小学区制が施行され、これまで明倫・県一から引き続いて統合後の明和高校・併設中学校に通っていた生徒のうち、住所が学区外となってしまった生徒はその住所の学区の学校に転出しなければならなくなりました。明倫49期生、県一43期生で新制高校3年生への進級を希望したもののうち、明和高校の小学区外に住んでいる者はそのまま明和高校に在籍することはできず、転出先の高校の卒業生となっています(同窓会名簿上では「昭和23年9月統合による入会者」として掲載されています)。
 同じ現象は、1つ下の学年、明倫50期生と県一44期生にも起こっていました。彼ら彼女らの中にも、明和の小学区外に住んでおり、転出を余儀なくされた者が少なくなかったのですが、彼ら彼女らは1947年度の旧制の3年生だった時、新制中学校制度が始まって、明倫・県一それぞれの併設中学校3年生として1年を過ごし、1948年3月に併設中学校を卒業しているので、それによって明倫・県一への在籍証明たる卒業証書を受け取っています。よって、同窓会名簿には「昭和23年3月併設中学校卒業生」として掲載されています。
 最後に、明倫・県一最後の入学者となる明倫51期生、県一45期生が辿った道のりを見ていきましょう。彼ら彼女らが旧制中学・高女の生徒であれたのは入学した最初の年度である1946年度のみ。1947年度からは新制中学校の制度開始により明倫・県一の併設中学校2年生、翌年も中学3年生(しかも併設中学校は過渡期の仮組織であるため後輩は入ってこない)として過ごします。1949年4月、やっと新制高校1年生となるわけですが、明和生としてここにたどり着くためには、やはり明和高校の小学区内に住んでいる必要がありました。学区外に住んでいることによる転出者は、「昭和24年併設中学校卒業生」として同窓会名簿に掲載されています(図の*7にある通り、昭和23年9月の併設中学における学区制施行はそれほど厳格ではなかったために、実際の転出者が少数もしくは存在しなかったからか、同窓会名簿では昭和23年9月の併設中学における学区制施行に伴う転出者は明記されておらず、おそらく昭和24年併設中学校卒業生にまとめて列記されているものと思われます)。
 学区制による転出を免れた明倫49期生・50期生・51期生、県一43期生・44期生・45期生は、それぞれ明和2回生、3回生、4回生として卒業していき、現在の77回生(77期生)に繋がっていくわけです。

小括

 要するに言いたいことは、大正期の県一本科では修業年限延長によってY(k)に-1の要素が加わり、戦時期~終戦期には学校制度の混乱の中で同窓会名簿の期数算定が期数の定義を厳密に守らなかったことによって、学籍的に公式になってしまった期数と卒業式の回数が一致しなくなってしまい、1947年以降は卒業式の回数に比べて期数が1大きい、つまりYに+1の要素が加わることになったということです(図で使用していた「期生」「回生」の区別はこれ以降使用せず、すべて前編の定義通りの「期生」で統一します)。
 言葉で説明していてもややこしいので、明倫・県一・明和の卒業式の回数と同窓会名簿に記載された学籍的公式期数を表にまとめました。

【表】明倫・県一・明和卒業式回数-期数対応表
( )でくくられた卒業式・期生は実際には存在しない。

 表を見るとよくわかる通り、県一では1926年の本科の卒業式がなく、卒業式回数・期数ともに-1のズレが発生し、終戦後には、1944年・1945年の慣例に従うのであれば、同期としなければならなかった1946年4年(短縮)卒業組と1947年5年卒業組が異なる期数になってしまったため、1947年から卒業式の回数と期数とが一致しなくなっていることがわかります。n回目の卒業式にn+1期生が卒業するということになってしまったまま、明倫・県一は統合され、期数はリセットされてしまったのです。
 以上の事情を期数算出の応用公式にあてはめると、県一起点、明倫起点、武揚学校起点の順に
 C(k)=X-1905+1+(-1[1927年~]+1[1947年~])
 C(mr)=X-1901+1+1[1947年~]
 C(b)=X-1892+1+1[1947年~]
という式が導出されます。何度も言うことですが、これは期数の厳密な定義に沿った期数算出の方法ではなく、学籍的公式期数に対応するための公式になります。戦前から通期で期数を積み重ねている高校は、おそらく学籍的公式期数に準拠しているはずでしょうから、次章ではこの公式を使って、明和における戦前通期換算期数を算出してみることにしましょう。

現役明和生の戦前通期換算期数 

 では、前章で求めた公式のXに現役生が卒業する西暦を代入して、現役明和生の戦前通期換算期数を算出します。
 まず、県一起点での現高1の戦前通期換算期数です。
 2025-1905+1-1+1=121
 現高1は県一起点で121期ということになります。
 続いて、明倫起点での現高1の戦前通期換算期数です。
 2025-1901+1+1=126
 現高1は明倫起点で126期ということになります。
 最後に、武揚学校起点での現高1の戦前通期換算期数です。
 2025-1892+1+1=135
 現高1は武揚学校起点で135期ということになります。
 明倫と県一に関しては、前章の表で、現高1が121期・126期になることを視覚的に示しています。例えば、明倫中学校の最初の卒業式を起点とした場合、期数は正式には50期で途絶えますが、その後も明和高校に引き継いで伸ばし続けると( )内に記した数になります。この表を見ても、現高1の明倫起点期数が126期、県一起点期数が121期となっていることがわかります。一気に期数の重みが増しましたね。
 この結論を得るまでに、かなり複雑な検討を重ねてきました。お疲れ様です。これを読み切ったあなたはもう期生呼びマスター!!初対面の相手でも臆することなく「何期生?」と聞くことができますね!!(相手方から受ける第一印象については責任を負いかねます)

余談1~明倫堂から数えては?~

 あ、これで終わり?明倫堂からは数えないの?という人がいるかもしれませんが、前編でも言った通り、近世の教育機関に卒業式という概念はないので考えるだけ無駄です。佐倉高校みたいに周年呼びをしたいならしてもいいですが、明倫堂が1783年創立だからって2022から1783を引いて出てくる数を現高1に充てるのはちょっと考えものです。なぜなら、佐倉高校と違って明倫堂から明倫中学を経て明和高校に至るまでの歴史の間には埋めがたい空白があるから。明倫を引き継ぐ中等教育機関がまったく存在しない1873年から1899年までの期間を算入するのはいかがなものかと思われますし、そもそも組織的にはまったく連続性が無いのでやはり明倫堂から数えるのは適当ではありません。

余談2~戦前通期換算している他校の期数は本当に合っているの?~

 前編では他県の高校の期生呼びの事例を紹介しましたが、その中には戦前通期換算の期生呼びを実際に使用している高校が少なくありませんでしたね。この戦前通期換算による期生呼びは想像以上に複雑であるということは、後編の検討で理解できたかと思いますが、では、戦前通期換算を実際に導入している高校は、複雑怪奇な期数算出を正しく行えているのでしょうか?
 ある高校で期生呼びが定着するルートは主に2つ考えられます。1つは学籍的公式期数を昔から学校・同窓会が公的に使用してきている場合です。この場合、学籍簿か何かに合わせて1期ずつ着実に積み重ねてきているわけですので、その結果が複雑怪奇な期数になろうとも、その学校としては正確な期数を使うことができていることになります。もう1つは、ある時点で期生呼びに関心を持った誰かが期数を算出していきなり使い始めた場合です。実は明和高校の期生呼びは後者のタイプで、2013~14年頃に、旭丘の期生呼びを導入して呼び始めたのが、今日に至る継続的な期生呼びの起源です(それまでも散発的に期数によって同期代が認識されることはあったようですが、学年全体が自分の代を何期であると把握するような状況ではなかったと考えられます。明和会では今でも公的には期生呼びではなく、和暦卒業年呼びで同期代を区別します)。一部の好事家が導入するような場合、その好事家が創立年を現在の西暦から引き算して期数の算出するなどの単純な間違いを犯し、周囲もそれに気づかなかったとしたら、誤った期数が定着してしまうことになります(佐倉高校はそんな感じがしますが……)。前編で戦前起点の期生呼びを紹介した際、その起点がどこかということを解説しましたが、しっかりと期数の検算を行ったわけではありません。その高校の学籍的公式期数を把握するためには同窓会名簿などを見る必要があり、それは難しいので沿革などを参考に推定したまでです。
 今後、皆さんがもし戦前通期換算の期生呼びを行っている高校の出身者に会ったら、ぜひ、その期数は本当に正しいのか、修業年限の延長・短縮・回復のあおりを受けた期数のズレが起きていないかなどを中心に再検討するよう伝えてみてください(その後の交友関係については責任を負いかねます)。

参考文献・史料

  • 愛知県立明和高等学校明和会「明和会会員名簿2016」(2016)

  • 「明治廿三年九月 武揚学校規則」(筆者所蔵)

  • 「明和会」記念誌編集委員会『愛知県立明和高等学校史』(1998)

  • 文部科学省HP「学制百年史 二 高等女学校令の制定」(https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317627.htm、2022年8月22日最終閲覧)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?