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東京都民から千葉県民になって変わったこと

 千葉県民になった。一昨年の秋のことである。

 私は生まれも育ちも東京で、知っている限り祖父の代から東京なので、完全に東京文化の中で生きてきた。東京と言っても山の手ではなく下町の方で、江戸っ子と人情と祭り好きの熱っ苦しい人に囲まれて生きてきた。学友もほとんどが祖父の代からの東京都民で、出身校の校歌を3代で歌える家も少なくなかった。我が家も中学の校歌を兄と私に教えてくれたのは父だった。物忘れの多い父が兄の中学進学直後に突然校歌を熱唱し始めた日は家族全員度肝を抜かれた。青春時代とはどの記憶よりも優先的に保護されるもののようだ。

 ところで私は東京駅がいたく好きで、大学時代のバイト先は東京駅、遊ぶのも買い物をするのも東京駅、卒業後の勤め先も東京駅を選んだ。

 私の人生の大半は下町と東京駅で構成されていた。10年以上、家と東京駅の往復をする日々だった。

 それゆえだろうか。私が結婚を機に千葉県民になると知った友人たちはやたらと心配し始めた。

「えみは東京以外で生きていけるのか?」

 母方の親戚まで心配して電話をしてくる始末である。

 当の私はというと、全く何も思っていなかった。東京を離れたくない気持ちもなかったし、不安もなかった。楽しみという気持ちもなかった。人ごとのように無感情で、悩みといえば大量の書道具の中でどれを持っていこうかという脳内トーナメントくらいであった。

 矛盾甚だしいかもしれないが、東京駅は好きでも人混みが大嫌いなのだ。

 大学生から東京駅の人混みの中を歩き、トランクに足を轢かれたこともあるし、痴漢やストーカー、ナンパ、勧誘、数え切れない。ほぼ毎日と言っても過言ではない。ハッキリ言って人間が嫌いでたまらない。イヤホンをしないと外を歩けない。

 私の引越し先は千葉県の中でも内房の方である。千葉市などの北部ではほぼ東京と変わらない人混みと騒がしさであるが、南に下って内房に行くと人間よりもたぶん鳥の方が多い。外灯の間隔がとてつもなく広く、車のフロントライトがないと道の形が見えない。最寄り駅に降りると「旅行の匂い」がしてくる。

 そんな千葉県の内房に住んで約2年。最近自分が無意識に変わったことに気がついた。我ながら興味深い変化だと思う。

 その変化に気づいたのは、「どこか出かけたいなぁ」と思ったときだった。目的地へのアクセスを探すために無意識にマップを開いていたのだ。

 今までの私は、目的地が決まったらまず開くのは乗り換え案内だった。何線にどこで乗り換えるのか、メトロはあんまり乗りたくないからJRでなるべく行けないかなぁと路線図を見ていた。

 マップを開くということは、地図上のどこらへんにあるのかを知りたいのである。東京でそんなことは考えたことがなかった。地図上で自分が今どこらへんに立っているのか、目的地までの距離はどれくらいかなんて知る必要がなかった。電車の乗り換えが重要で、場所は重要ではないのだ。

 しかし内房にいると、必要な情報は乗り換えではなく目的地の地図上の位置になるのだ。目的地に”最寄り駅”はない。ほとんどの家庭が車を持っているため、バスもあまり走っていない。東京では”何回も乗り換える近場”よりも、”一本で行ける遠方”の方が「近い」の分類に入る。「近さ」は距離ではなく、乗り換え回数であったり、所要時間であったりするのだ。しかしここでは、「近さ」は純粋に「距離」である。場所の捉え方が「路線図」という”線”から「地図」という”面”になったことで、距離の捉え方が「時間」から「道のり」になったのだ。

 元来一人旅が好きなタチで、どこかに出かけたくてやたらと地図を見ていたら千葉県の市の位置をかなり覚えてしまった。東京23区は恥ずかしながら一つも位置を知らないのに。

 子どもの頃から地図が苦手だった。地図を見てみんな何を知ろうとしているのか不思議だった。地図を見ても乗り換え案内は乗っていないし、行き先への誘導をしてくれることはない。東京に住んでいたときはずっと理解できないと思っていた。

 しかし千葉県民になってみて思う。地図がないとどこにも行けないじゃないか! 

 なるほど、私の地図に対する意識は東京在住だったからかもしれない。(多分違う)

 この点でもう一つ興味深いのは、内房で生まれ育ち、車社会で生きてきた主人は電車の乗り換えが苦手である。

 車を運転しているときは、「ここってことはだいたいこの方向かな」くらいの軽い間隔で目的地につけてしまうような方向感覚を持っているはずの主人が、電車の乗り換えになると嘘のようにポンコツになる。「◯◯キロだから大体◯◯分くらいかなぁ」と予測をつけられる人なのに、電車に乗るときはいつも「どれくらいでつくの?」と何度も訊いてくる。たぶん主人は電車に乗るときも、路線図の”線”ではなく、地図の”面”で距離を測っているのだ。

 もしかしてこの人、方向音痴なのかしら? と思ったのは、結婚前に東京に電車で来るときにとんでもない乗り換えミスを何度もしたときである。なんと、結婚の挨拶に来る日まで電車を間違えて1時間も遅刻してきたのだ。「1時間も遅刻してこんなこと言うのもちょっとアレなのですが、、、娘さんと結婚させてください」と言われて両親も笑ってしまっていた。なにもそんな複雑な乗り換えなどなにもない。1回。うちに来るのに乗り換えるのはたった1回なのだ。それを間違えるのだから方向音痴を疑わざるを得ない。

 しかし結婚して気づいたのだが、主人は決して方向音痴ではなかった。はじめて行く場所でも、運転で道に迷ったことがない。地図を見ながら歩いて、ナビ無しでもスムーズに目的地につくことができる。乗り換えができない人と同一人物とは思えない。

 こう考えると、なるほどやはり育った土地の交通手段と地図の捉え方は因果関係があるような気がしてくる。そして私は着実に内房の車社会の人間に進化している。

 友人たちが言っていた心配も、なんとなくわかる気がしてきた。私はどこでも電車で適当に行ける生き方をずっとしてきた。これを人は「便利」というし、公共交通機関が充実していないところを「不便」と呼ぶ。この「不便さ」に耐えられるか? は確かに重要なことなのかもしれない。でも不思議なことに私はなんとも思わない。

 「便利」「不便」という物差しで土地を測ること自体が、そもそも私の中にないのかもしれない。今までは線だったけど、ここでは面なんだなぁ、とようやく気づいただけで、それが自分の生活をどれくらい不便にするのかは全くわからない。私は不本意ではあるが方向音痴で、たぶん不便さを感じるほど地図に詳しくないのだ。ナビがなくてもテキパキと進める人の方が、もしかしたら不便さを敏感に感じ取れるのかもしれない、と思う。

 とはいえ、たった一つだけ不便と思うことがある。どこに旅行に行くにも、アクセスが悪いのだ。

 内房は半島なので、ここから出るのが大変なのだ。空港も遠いし、新幹線もない。車でもアクアラインで千葉から脱出しないとルートに乗れない。これは「どこか旅行に行きたいなぁ!」というときに必ずぶつかる壁である。あぁ! どこに行くにも千葉県から出るのに1時間もかかる! 東京って旅行するには便利だったんだなぁ、と東京を出て初めて気づく。

 しかし不思議と、東京のことは恋しくない。まぁ、いつでも行けるというのもあるし、千葉がとても気に入っている。自分が変わっていくことに気づくのも毎日新鮮で楽しい。

 住んで見れば、内房には面白いところがたくさんある。でもみんな千葉県に来るときはディズニーで止まってしまって、なかなか奥まで入ってきてくれない。

 いつか内房をもっと堪能したら、観光の紹介をしてみたい、と思う。もっと観光客を呼び込みたい。いいところだからぜひ遊びに来てほしい。話題になってほしい。東京に住んでいるときは東京に対してそう思ったことは1度もなかったのに。すっかり私は千葉県民になったような気がする。

 いつか内房を紹介する記事を書くことができるように、まずは地図を広げてみようと思う。


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