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私たちに試されている勇気

私が子供だった頃は、アメリカとソ連の「コールドウォー(冷たい戦争)」が世界に影を落としていた。「第三次世界大戦の核戦争が起こり、地球が滅亡する」というコンセプトのSF小説や映画をいくつも見た。

それに加えて「ノストラダムスの大予言」も大流行していたので、心のどこかで私は「自分の寿命が尽きるより先に、地球滅亡のために命がなくなるかもしれない」と、うっすら思っていたのを思い出す。

しかし、想像もしなかったソ連の崩壊やベルリンの壁の崩壊が起こり、やがてアメリカが世界の警察ポジションから退き始めるという現状がやってきて、半世紀前とは全く異なる道を私たちは進んでいる。

ところがここにきて今私たちにやってきているのは、再びの核戦争が起こるや否や?という深刻な局面だ。ネットニュースのコメント欄では、日本の軍事力云々についての意見にまで話が広がっている。

「綺麗ごとを言っていてもらちがあかない」「力には力を!」「武器を持って暴れまわる人に、非暴力主義で立ち向かっても自分がやられて終わりだ」・・そういう意見を読みながら、私は考えている。本当にそうなのだろうか?暴力を前にして「愛と平和」は無力なのだろうか?

肉体を持って生きることが最優先・・そういう条件の下であるなら、肉体が失われるという恐怖ゆえに「力には力を」の図式は成り立つのかもしれない。人類の歴史は戦いの歴史で、侵略や略奪から無縁だった国などほぼない。経済戦争と呼ばれるものを含め、人間は「戦い」が好きだ。

極端な事を言えば、スポーツ競技とは、人と人が命を取り合うことなく戦うためのものであり、うがった見方をすれば、戦争などをしないためにスポーツが存在しているのかもしれない。

しかし、そのスポーツさえ好きではない人達もいる。コンクールのような順位を付けるものでも苦手な人達もいる。もし世界がそういう人達だらけだったなら、間違いなく紛争も戦争も起こらないと思う。なぜなら、そういう性質の人達は、もし意見の相違や行き違いがあっても、平和的な解決や調和の方向を望むからだ。

自分自身の子育てと、これまで仕事として子ども達に関わってきた経験から言うならば、平成以降に生まれた人達は、基本「争う・競う」というクォリティーを彼らの中に持っていないのを感じる。もちろんすべてがそうとは言わないが、その場合も、後付けで植え付けられたものに駆り立てられている場合が多いのではと感じている。

塾を経営していた頃によくあったのが、「うちの子、がんばればもっと成績が上がると思うんですよ。能力はあると思うのですが。どうすればやる気をだしてもらえるのでしょうか?」という保護者からの相談だった。しかし肝心の本人たちは、「え?なぜ一番目指さなくてはならないの?」だったり、「別に成績上げたいとは思わない」と答えることがほとんどだった。

彼らが勉強に精を出したり、成績を上げることをしようとするのは、大抵の場合友人と競う事で遊ぶゲーム感覚だったり、または何か行きたい学校が明確にあって、そこに行くための手段としてがんばることを納得している時だった。

これは我が子のエピソードだが、スポーツにおいても印象的な出来事があった。息子は中学時代にテニスをしていたのだが、ある時目を輝かせて「きょう、楽しかった~!」と報告してくれたことがあった。試合に勝ったのかと思って聞いたら、「負けた。でもすっごく楽しかったんだよ!」と。

それは他校との練習試合だったらしいのだが、県でトップクラスのペアと試合をしたらしく、普段自分の学校にはいない強豪ペアとの打ち合いが、刺激的で楽しすぎたらしい。「負けたのに楽しい」というのは、昭和生まれの私には一瞬理解不能だったが、あまりにも嬉しそうだったので、その時の顔が今でも忘れられない。

息子はその後、運よく県大会へと出場することになったのだが、その時も、私の予想の上を行く出来事が起こった。一回戦で当たったのが優勝候補の一角にいたペアだったので、息子たちはさっさと負けて帰ろうという不謹慎な態度でいた(笑)ところが、それゆえに肩の力が抜けていたというか、無心だったからというか、なんとも神がかったナイスプレーの連続で、あろうことか大金星をとったのだ。

すると沸き立ったのは本人たちではなくて顧問の先生だった。二回戦は過去に何度も勝っていた相手だったので、このままかなりいいところまでいけるはず!と先生は猛烈に期待したらしい。そうしたら、今度はありえないミスの連続で、息子達はあっけなく負けたのだ。

その時の先生の肩を落とした姿と、全然平気な息子達の姿があまりにも対照的で、正直私は驚いた。あとでこっそり息子に聞いたら、「先生のやる気とプレッシャーにやばい!と思ったら、なんだか調子が狂って負けてしまった(笑)」というわけだ。

息子はスポーツが大好きなのだけれど、いつもこんな感じなのだ。競うことはあくまでゲームで、勝っても負けても「楽しい!」のためにやっている。一方、息子達に負けたペアの子たちと、そのギャラリーにいた保護者の人達は、この世の終わりのように悲しんでいた。もしかしたら、二回戦に負けたのも、保護者達の怨念が飛んできたせいなのかもしれない(笑)

世界は変化しているのだと思う。負けて泣いていたペアの子達も、本当は勝っても負けても「楽しかった~!」という子達なのに、前時代の意識を持った親達が、勝敗に力を持たせて教育してしまったが故の反応だったのだと思う。

せっかく変化して生まれてきている子ども達を、私たちは逆戻りの方向に教育してはならないと思うのだ。そのためには、「力には力を!」というスローガンを手放していく勇気が必要だ。そんなことを言っていたら爆撃されて死んでしまう・・としても、武器のない世界に向かっていくしか、この堂々巡りは終わらない。

私はキリスト教者ではないけれども、彼らの殉教という概念にはずっと考えさせられてきた。自分の信じること、自分の感じることに蓋をすることを決してせず、肉体の存亡を超えてそれを貫く勇気とは、一体どのようなものなのかと。

見ず知らずの人のために線路に飛び降りて自分の命を失う人。その崇高な魂は、死ぬとか死なないとか考えるより前に、目の前にいる人を助けたい!の思いで行動することができた人なのだと思う。地球上のすべての人がこういう人達だったら、紛争や戦争は絶対起きないということは、誰にでもわかるだろう。

今この瞬間に、地球上の紛争を望まないすべての人達が心を平和に、調和に向けたならば、きっと何か不思議なことが起こって今起こっている争いは終わる方向に向かうと私は思うのだ。「力には力を!」という、肉体を持って生きている場所ではある意味真実であるその方程式を手放すには、私たちは肉体を超えた魂存在であることを思い出すしかないのだと思う。

絵空事を言っていると思われても構わない。人類のこの長い歴史で繰り返されてきたことを終わらせるには、たぶんこれしかないと私は信じている。そして、戦争は最たる「表面に出ている極端な現象」であり、今身近に起こっているさまざまな問題のすべてが、同じ理屈で起きているのだ。戦争といじめは別問題ではないし、環境問題も経済格差も、問題の根っこは同じなのだ。

私たちに試されている勇気は、愛しい子ども達の世代の未来の地球の存亡に関わっていると言えると思う。大袈裟ではなく、私はそう思うのだ。