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もう眠って生きてはいられない

今回のコロナ騒動に関する世界的な動きには、それが陰謀であるとか、実際はそれほど騒ぐことなんてないんだとか、様々な声があがっている。

日本においては年間の自殺者が3万人いることを考えれば、コロナで亡くなる人よりもよほどそちらの方が大きな問題では?とも思う。実際に今朝も、東京オリンピックでの灯火ランナーに決まっていたとんかつ屋のご主人が、天ぷら油を被って自死を選んだようだという悲惨なニュースを目にした。

実は、海外の友人の一人が旅行社を経営していて、彼女は特にクルーズ船での旅行に力を入れていたものだから、このコロナでの騒ぎで商売は大変なことになり、怒りと疑問で私にも意見を問いかけるメールが来ていた。

しかし私はすぐに彼女に返信することができず、しばらくこのことについて何が真実なのかをずっと自分に問いかけ、感じ続けた。

そしてある日、確信に近い感覚がやってきた。

やはりコロナは、単なる「きっかけ」でしかないのだ。人類が次のステージに進むための何か大きな「きっかけ」が必要だったから、起こったことなのだと思うのだ。

今回の状況では、前述のとんかつ屋さんのように経済的に打撃を受け打ちひしがれ絶望する人もいる一方、生き方を考え直して自分を見つめる機会にしている人もいる。

経済的な打撃があっても、本当に大切なことは何かにフォーカスを当て、社員への思いやりと心の繋がりをより強めて未来に向かおうとしている経営者もいる。

また、既にこのようなことになることを見越していたかのように、騒動に全く困らず自分のやることが確立されている人もいる。

それらは偶然ではなく必然で、かつてない状況の中で、自分がどのように生きていくのかという、もう逃れられない命題と全ての人が向き合う時がきているのだろう。

そして、「死」というものが終わりではなく、私達は身体が死んでもスピリットとして生き続けるのだということを、知る人と知らない人の差が現れてきているような気がする。

コロナによる死が、「突然に自分ではないものに自分の人生が奪われてしまうこと」だと定義する人は、ただただ「怖れ」に飲み込まれていくことだろう。

そうではないのだ。自分の意志でない死などありえないのだ。身体を持つ前に人生のあちこちに設けたEXIT(出口)の一つとして、「コロナによる死」を設定してあった人もいるだけなのだ。

イギリスのジョンソン首相は、EXITの一つとして「コロナによる死」を選び、あちらの世界へと移行する寸前だった。しかし、イギリスの多くの人達が彼への愛を放射し、まだこちらにいてほしいと祈りを捧げたことで、彼は戻ることを決めたのだそうだ。

戻るか戻らないかは自由だ。志村さんは、あちら側に行くことで、これからやってくる人達への強力なサポーターになることを選んだに違いない。そして何より彼自身が癒されることを願ったのだと私は思う。

「死」は悲惨なことではない。個人個人の選択でしかない。身体を持ってこの世に生きることの方が、本当のところよほど大変なのだ。

それでもその大変さの中で、私達は一体何をしたいのか?人間として生きることで、自分は何を体験し、何を感じ、何を得たいのか?

コロナ騒動は、物理的に私達のエーテル体が緩み、よりスピリットの望みと共に生きることを可能にするだけではなく、半分眠って生きていた私達の深いところを揺さぶるために起こっている。

人と会う事が減っている今だからこそ、私達は自分と向き合える。時には向き合う事を避けていた家族と、向き合う機会を手にしている。とことん、とことん、私達の目を覚ます時が来ているのだ。

今起こっていることをネガティブに捉えることは、もったいないとしか言いようがない。自由に行動できることの喜びを本当に味わうためにも、今こそ私達は自分自身が被っているベールを根こそぎ剥いで行く時なのだ。

私たちの未来は悲惨なのではない。私たちは進化して生きていくのだ。