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現実とスピリチュアリティーの融合

「オーラの泉」の放映が始まったのが15年前。それまでは常識の範囲での会話には使われることが少なかった「オーラ」という言葉はこの番組によって市民権を得て、今では例えばこういうふうに辞書に載っている。

”人体から発散される霊的なエネルギー。転じて、ある人や物が発する、一種独得な霊的な雰囲気。(デジタル大辞泉より)”

かつては霊能者は先生と呼ばれ、人より優れた何かを持つ人として一部の人には敬われたし、そういう人が始祖となりさまざまな新宗教も現れた。

まぁ平たく言えば、キリストも仏陀もモハメッドも、空海や聖徳太子などもそういう霊能者のカテゴリーの人達なので、過去には「見えないものが見える人達」は「人々を導く人達」としての役割を果たしていたわけだ。

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しかしここにきて、オーラが見えたり、見えない存在が見えたり、過去世の記憶が蘇ったり、アカシックが読めたり、宇宙や次元の違う存在からチャネリングしたり・・というのは、ごくごくありふれて多くの人がやる世界になってきた。

そしてたとえそういうものに興味がない人たちの間でも「オーラがある」という言い方はごく自然な日本語になっているし、クリスタルといえばもはやグラス(コップ)のことではなくて、なんらかのパワーがあると言われている天然石のことを指す方が多い。

更にこの頃では、子ども達が生まれながらにサイキックであることを隠さない(隠せない)で育っていることも多くなっている。

見えない存在とお話しする子はたくさんいるし、幼児や小学生とは思えない叡智で大人に何かを伝えてくれる子ども達もどんどん増えている。

そういうクォリティーがポジティブに表現されない場合は、感覚が鋭敏すぎてそれをどう扱ってよいかに悩み、不登校などにならざるを得ないこともある。

そのような子ども達はもはや珍しいものではなく、彼らの(無意識レベルでの)これまでの社会構造への変革への提言は、実際にもう社会を動かしている。

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大人である私達は、もうスピリチュアリティーと現実とを区別して言葉を選んだり、行動を制限したりしている時ではないのではないかと、この頃よく思うのだ。

魂が肉体という乗り物を使っている限り、現実社会に生きるということは確かに大切だ。しかし、その乗り物である肉体そのものも、もう確実に変化し始めている。

例えば、コロナによる弊害ではなく実益の一つとして、「エーテル体が緩む」ことがザ・グループより伝えられている。

もちろん、そのためだけにこのパンデミックが起こっているのではないのだけれど、事実の一つとして既に私たちはもう以前の私たちとは違ってきている。

直感に従うということが、どれほど私達の人生をスムーズに進めていくかということについても、あえて異論を唱える人は少なくなっているのではないだろうか。

私たちの記憶の中には、「見えないもの」に力を与えることはタブーとされた、親達が活躍していた頃の社会の姿が存在している。

しかしもうそれは過去のものだ。もう普通に多くの人達が、「見えないもの」の存在を知っているし、それらと共に生きている。

雑誌「ムー」やSFが異端のモノであったのは、もう随分むかしの話なのだ。

すでに子ども達の読むマンガやアニメには、「見えないもの」や「見えない力」が溢れているし、それらは彼らの関心事なのだ。

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「良識的な大人」である条件に「見えるものを信じる」ことが幅を利かせていたのは、すでにあちらの世界に戻りつつある世代の名残でしかなく、私達はそこから本当に自由になってもよいのだと思う。

実はこの世的に成功している人達も、そういう力をあてにしたり頼ったりしているのだが、それをおおっぴらには言っていないだけなのだ。

そろそ全部もうおおっぴらでよいのではないだろうか?笑

そうすることで楽になるのは大人だけではない。何より、子ども達がものすごく楽に生きていける社会になると思う。

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親達が常識や慣習に縛られることなく、内なる感覚に素直にサイキックであり続けるなら、子ども達を育てるにあたっても、不安や心配に根差した育て方ではなく、彼らの才能や未来をより輝かせる方向へとアドバイスやサポートをしていけるだろう。

現実にスピリチュアリティーを融合させていくというのは、もう特別なことや怪しいことでは全くなく、必要でしかないことになっているのだと思う。

我々は本来スピリット存在なのだから、「スピリチュアル」という言葉は「本質的に」という言葉と同義であり、私たちが自分らしく生きることでしかない。

現実とスピリチュアリティーという言葉の対比も、これからはきっとなくなっていくのだろうな。