【追悼記事】福をまねく人

横浜の駅。西口高島屋正面入り口は、人と人が待ち合わせをするとき、よく使われる場所だ。

去年、私は 秋のまん真ん中の頃、主人と一人の人を待っていた。
SNSで知り合った人と初めて会うのだから、危険でないとは限らない。ボディガードの主人が必要だった。

私は、その頃はまだ周りの人からは信用されなかった男性と初めてお目にかかることになっていた。
その人は、編集者であり、企画を立てる人であり、もう、引退していた、と言っていたが……

その人の名は、まねきさん。noteの世界で知り合った人だ。

会う前のイメージとしては、頭のはげた、ちょっとお腹の出た中年のおじさん、といった感じだった。SNSや、メールのオーラではそんな感じだった。

その頃の、SNS仲間の間では、まねきさんを信用する者はまだ後のときより数が少なく、
「騙されないように」
と、忠告する人が多かった。

「万全の注意はする。『お金』が絡んだり、危険なことにならないように充分な安全策はとる。ただ、信じることを全くせずに機会を逃すのはだめ」

と、思い、コメント欄のやり取り、メール、LINEのやり取りのみだったまねきさんと会おうと思った。
一緒に、私のシナリオの企画書を練るためだった。

まねきさんは「横浜なら、何度も行ったことがある」
と、言っていたのに「横浜高島屋」が、分からなかった。
何度か、すれ違った後に 主人と私の前に現れたのは、痩身の黄色いパーカーと青いコートに包まれた初老の、サラリーマンではないと一目でわかる“自由人”だった。

まねきさんは、腎臓を患っていたため、肌の色は悪かった。卵型の顔に大きな瞳で臆することなく企画のおおよそを話す。パワーがあり、人を自身の世界に飲み込む流れのうまさは、「企画」で生きてきた人だった。「久しぶりにこういう人に会ったな」と、私は思う。

私は、19歳の頃文芸サークルなども主催していたが「こんな牽引力があればな」と思った。
まねきさんは「その世界」で「自分の世界を引っ張ってきた人」だった。

ケンタッキーで、鶏肉をご馳走になりながら、その頃まねきさんに目をかけていただいていたもう一人の存在兼ボディガード、「私の主人」も一緒に、さまざまな「売り込む方法」を語っていた。
情報、智慧、常識において非常に豊富な方だというのはすぐにわかった。
そして、悪人でないことも。

私たちは、それから2度3度と、まねきさんと会うが、まねきさんは、去年の12月23日の未明、LINEの既読をつけてから連絡が取れなくなった。
その最後の私からのメッセージは、私の「わが家に幼児がやってきた」の記事を試読に送ったものだった。

既読のみつけて、この世を去られた。

去年の夏にシナリオをやってみないか、と言われ、「あやしい」と、周囲が怪ぶむ中で交流を始め、12月に他界されるまで、約5ヶ月。あっというまに去っていかれてしまったが、noteで影響や、信頼、尊敬も集めたまねきさんは、まだこのnoteの世界を彷徨っているように思える。

「みんな、ようやってるかいね。『ランチつぶやき』でもするかい? 」と。



2023.12.23.山田えみこ




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