広島文脈の結晶・宏池会の源流3

これまでの流れは、

前回一つ書き漏れたが、昭和29甲午年(1954年)5月11日に内閣諮問機関として原子力平和利用準備調査会が設置されている。これに先立って2月、原子力研究開始の可否について公聴会が開かれている。そして、3月の予算で原子力予算が2億5千万円計上された。これは、通産省の予算であり、通産大臣は愛知揆一、大蔵政務次官から1月に通産大臣に横滑りしており、さらに父親の敬一は物理学者でアインシュタイン来日時に出迎え、通訳を務めているということもあり、原子力予算を計上するための人事であったと言えそう。そしてのちに原子力担当大臣となる正力松太郎の読売新聞が原子力推進の一大キャンペーンを張ったという。

明けて昭和30乙未年(1955年)、1月4日にビキニ被災補償としてアメリカから200万ドルの慰謝料が支払われるという公文が交換されており、原子力予算の2億5千万はこれでカバーされたのだと考えて良さそう。2月14日にはイギリスが水爆の製造開始を発表している。この間、天の声解散を経て第二次鳩山内閣が成立しているが、関係のある閣僚は変わっていない。その衆議院選挙と同じ日の2月27日に、核兵器反対派で軽工業重視を打ち出していたソ連のマレンコフ首相が辞任したためか、日本での政界再編含みで日ソ関係が一気に動き出す。4月1日に日ソ和平交渉全権委員に松本俊一が任命された。4月11日、石橋湛山通産大臣の下、通産省に原子力課が設置される。13日には三木武吉民主党総務会長が保守合同を提唱し、5月8日には社会党も統一に向けて折衝を始める。5月9日には西ドイツがNATOに加盟し、西ドイツの再軍備に反対していたソ連もそれに対して5月14日にワルシャワ条約機構を設立し、冷戦への流れが一気に強まった。そんな中、6月1日にはロンドンで日ソ和平交渉が始まり、松本・マリク会談が9月まで15回にわたって行われる。

そんな流れも関わってか、7月20日には満州で鮎川の後に満州重工業開発の総裁を務め、かつて電源開発の総裁も務めていた高碕達之助率いる経済審議庁が経済企画庁と名を変える。高碕は日中貿易交渉にも関わっており、国家主導経済主義を志向する鳩山政権の核ともいえる存在だった。戦後最強官庁とも呼ばれた経済安定本部が、GHQの占領終了を受けて経済審議庁に縮小されたのが、これによって再び一歩前に出たことを感じさせる。なお翌昭和31丙申年(1956年)に高碕指揮下の経済企画庁から出された経済白書に「もはや『戦後』ではない」の有名な言葉が出てくる。そして大臣が河野一郎に変わった昭和32丁酉年(1957年)には大臣庁は省と同様の組織機構を有することができるようになったことで事務次官が置かれ省並の力を持つようになってゆく。経済企画庁は、今では内閣府の一部となっているが、担当国務大臣はいまだに総理、外相、財務相と並んで政府四演説の一つである経済演説を行うことになっている。これは元々は経済安定本部の総務長官が行っていたものが、吉田内閣の時に池田勇人通産大臣が行うように代わり、鳩山内閣で民間大蔵大臣の一万田尚人、通産大臣石橋湛山となり、そして高碕以降経済企画庁長官の所管となる。池田内閣では経済演説はほとんどなされなかったが、佐藤内閣となって宮澤喜一が経済企画庁長官となると、そこからほぼ固定して経済演説は経済企画庁長官によって行われるようになった。これが完全に政府四演説として固定されたのは、平成5癸酉年(1993年)の宮澤内閣の時であった。つまり、鳩山内閣によって、満州色色濃い高碕によって復活を遂げた元安本の経済企画庁が、池田、宮澤によって宏池会の影響力の非常に強いものとなったのだといえる。

少し話が逸れたが、昭和30乙未年(1955年)に戻ると、7月28日にはオネスト・ジョンと呼ばれる核弾頭搭載地対地ロケットの在日米軍への配備の話が出て、ヨーロッパでの軍事的緊張の高まりがアジアにも広がってくる。それを受けてか、8月6日、10回目の広島原爆の日に、第一回原水爆禁止世界大会が開かれた。これを受けて結成された原水爆禁止日本協議会の初代理事長安井郁法政大学教授は、戦前にはハンス・モーゲンソーの影響を受けていたという(国際関係論の成立と国際法学 – J-Stage)。ドイツ出身ユダヤ人の国際政治学者モーゲンソーはシカゴ大学で研究しており、シカゴ大学にはマンハッタン計画の中心であったアーサー・コンプトンの冶金研究所があった。また、ブレトンウッズ体制の理論的裏付けをしたとみられるジェイコブ・ヴァイナーもシカゴ大学だった。

8月8日には長崎で平和祈念像が除幕された。この間の8月7日にはソニーの前身である東京通信工業が初のトランジスタラジオを発売したとされ、のちに池田勇人は「トランジスタのセールスマン」と揶揄される。

それはともかく、核持込みと原水爆禁止というこれまたマッチポンプで煽りながら、11月14日日米原子力協定が調印され12月27日に発効、この前後、10月13日に社会党左右両派が四年ぶりに統一し、原子力協定調印翌日の11月15日には自由党と日本民主党が合併し自由民主党が結成されて、55年体制が出来上がり、11月22日には第三次鳩山内閣が成立している。12月16日には原子力基本法が可決され、19日に公示されている。これは、河野一郎の春秋会に属する中曽根康弘らが中心となって法案を作成し、自民党と社会党の共同提案で成立したという。同じ日に原子力委員会設置も決まり、明けて昭和31丙申年(1956)1月1日、原子力委員会が設置され、正力松太郎が委員長となって、「5年以内に原子力発電を実現させる」という目標を発表した。ここからトントン拍子に話が動き出し、3月1日には日本工業倶楽部に日本原子力産業会が発足、4月6日に原子力委員会が原子力発電研究所の建設地として茨城県東海村を選定し、6月には財団法人日本原子力研究所が、8月にはウラン燃料を調達する原子燃料公社が発足し、10月にはIAEAの憲章に調印した。それによってアメリカから供与された濃縮ウランを用いて東海村の実験炉での臨界試験が動き始めることになる。

この原子力に関わる動きと連動するように、日ソ交渉も加速する。

昭和31丙申年(1956)1月、ロンドンで日ソ交渉が再開される。27日に東ドイツがワルシャワ条約機構に加盟、28日に鳩山の最大の対抗勢力であった緒方竹虎が急死している。2月25日にフルシチョフによるスターリン批判が起こる。前回の記事とはマレンコフについての評価が変わっているので、このフルシチョフの行動についても少し見解を変える必要がありそうだが、今はソ連国内の様子まではとても手が回らないので、とりあえずは保留しておく。3月にソ連が漁業制限を発表するなど、北洋漁業の問題が急にクローズアップされる。4月5日に自民党大会で鳩山一郎が初代総裁に選出される。自由党系は緒方竹虎が亡くなったことで候補者がまとまらず、95票の白票以外は鳩山に投票した。この翌日に東海村に原子力研究施設が決まる。

4月9日に駐英大使間で漁業問題についてソ連から日本に打診が行われたという。イギリスでは前年4月にチャーチルが引退し、アンソニー・イーデンが首相となっていた。この首相交代が曲者で、イーデンが首相となった2日前の4月5日にイギリスが2月にイラクとトルコとの間に結ばれた軍事同盟に参加を表明し、バグダッド協定が成立している。そこにはその後パキスタンとイランが参加し、一方でエジプトのナセルはその協定に対するアラブ民族主義のリーダーのようになっていた。その頃、ナセルはアスワン・ハイ・ダムの建設をしようとしており、ソ連から資本導入しようとしていたが、冷戦構造の中で1955年12月にアメリカとイギリスが資金拠出を表明しながら、のちにアメリカはそれを撤回する、というようなことをしていた。明けて1月1日にはエジプトの南にあり、ナイル川の上流にあたるスーダンがイギリスから独立している。ヤルタ三巨頭で最後まで生き残ったチャーチルが、その人生の総決算をしていた時期なのだと言える。そんな時期にロンドンでの日ソ交渉が行われていたことになる。結局ナセルは6月にソ連からの資金でのダム建設を決め、7月に大統領となるやいなやスエズ運河の国有化を決めて第二次中東戦争に突入することになる。

さて、ソ連から漁業交渉について打診があった翌日4月10日、河野一郎農林大臣を団長とする代表団をモスクワに送ることがソ連に伝えられた。これは、在外公館からの情報を元にして日本サイドから一方的に通告したものであり、これによって日ソ交渉が外相ではなく農林大臣マターで行われることになったことになる。これは、外相の重光が終戦に関わっていたということもあり、内閣全体として公式ルートではなく、脇道交渉をしたいという意図を持っていたことを示している。そこにこそ北方領土問題の原点があるのだと言って良いだろう。それはともかく、4月29日に日ソ漁業交渉が始まり、5月15日には日ソ漁業条約が調印されている。ソ連からのアスワン・ハイ・ダムへの2%での融資が決まったのはその後の6月であり、この交渉によって得られた利益を元にこの融資が定められたのかもしれない。というのは、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、その意味で、日ソ二国間においては北方領土どころか千島全島の帰属すらも定まっておらず、そこに残された資産の行方は定まっていなかった。さらに言えば樺太のオハ油田に関しても、日本が自ら建設した生産設備を持っており、その下にある油田も含めて法的にはそれについてもソ連のものだとは言えなかった。これらの施設に関して、日ソ漁業条約が樺太はおろか千島についてもソ連の主権を認めた上で締結されたことで、自然に所有権も移転すると解釈できるようになってしまったと言えるのだ。だから、ソ連はその利益を用いてアスワン・ハイ・ダムへの融資が可能となったと考えることもできそうだ。このような重大な主権についての譲歩が、外交権を持たない農林大臣によって行われたとは驚くべきことだ。戦前に、鮎川の日本産業の母体となった久原産業を興しそれを鮎川に譲った後も中国進出に熱心だった久原房之助の久原派に鳩山と共に属し、戦後には北洋漁業の日魯漁業の経営に携わっていた河野がその事情を知らないはずがなく、日本サイドから漁業交渉を通達したことからも、河野が意図的に大幅譲歩を行ったことは疑いないだろう。

7月26日、スエズ運河の国有化が宣言されたその日に、重光外相を全権とした日ソ交渉団がモスクワに向けて出発している。それから半月強かけて日ソ交渉を行ったが、重光に対して第一回スエズ運河国際会議へ出席するよう訓令が出たことで交渉は中断となり、その後鳩山が自らモスクワ訪問することになった。その後は以前書いた記事の通り。10月19日に日ソ共同宣言が出され、そこから鳩山が帰国するまでの間にハンガリー動乱が起こり、第二次中東戦争が勃発し、ソ連のハンガリーへの武力介入も発生する。そのハンガリー動乱は、中ソ対立の大きな原因となってゆく。これを見れば、この共同宣言がいかに世界に厄災を振り撒いたかがわかる。それを自覚していたのかどうか、鳩山は帰国直後に引退を表明する。12月18日には、ソ連が反対していた日本の国連への加盟が国連総会で承認された。ずいぶん高くついた国連加盟だと言わざるを得ない。

宏池会とはほとんど関係のない話になってしまったが、サンフランシスコ講和条約を主導した池田が舞台裏に隠れている間になされたさまざまなその後処理について見てみた。

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