労働価値説の是非

スミス的市場を機能させるために、労働価値説はどのように適用されるべきなのかを考える必要が出てくる。労働というのは、個々人によってその解釈が分かれ、だからこそ市場による評価が必要であるという、スミスがその考えに至らざるを得なかった事情は理解できるが、この部分についてはさらなる整理が必要なのだろうと感じられる。

価値とは

労働に入る前に、価値とは一体なんなのか、ということを考えてみたい。価値とは自分にとってのものなのか、他者からの評価なのか、そしてそれは貨幣評価されるべきものなのか。
功利主義的な効用の観点から言えば、価値は自分が価値があると思うから価値なのであって、すなわち新古典派的解釈によれば、それぞれが価値を見出した労働行為をすることが価値を生み出すことになる。
一方でケインズ的な美人投票的市場観に基づけば、価値は他者に評価されるから生じるわけであり、他者が評価するような行動をすることが労働であるという労働価値説となる。

価値論に基づく自然労働と市場労働

前者ならば市場的には生きていること自体が価値で、プラスアルファの付加価値労働が市場取引に付されることになると解釈でき、すなわちこれは皆が生きているから自分も生きていることができるという、生活必需品としての社会と捉えることであり、生きているという自然労働自体に価値があると考えられることから、その観点からはベーシックインカムが正当化される、というよりも、それ以上の付加価値労働を生み出すベースとしてそれは必須となる。
一方で、ケインズ的な観点による労働価値は、みんなが美人であると感じる行動を行う、いわば予測に従って行動することが価値を生む、ということになり、それが信用のベースになるのだと考えられる。信用を買うためには、その段階で将来払いの契約をする必要があり、いずれにしてもその時点で将来の賃金支払いは約束することで、即時払いという労働価値説を成り立たせる要件を確保し、そしてその信用が守られたら次回以降の信用払いを検討する、という仕組みが求められることになりそう。現在の賃労働の仕組みは、その両者が区別されないままに、会社丸抱えの社会保障的な仕組みと、終身雇用的な信用を無条件に継続するという仕組みが併存していることで、労働価値説の実現を難しくしているのだとも言えそうだ。仮に労働価値を貨幣で評価しようとするのならば、このような、自然労働と市場労働の区分けが必要となってくるだろう。

労働の価値

ここでようやく労働の価値の議論に入ることができるが、さて、それでは労働とは一体なんなのだろうか。市場メカニズムを前提とすれば、それは、市場で取引される価値である財を生産する行動、ということになる。その前提自体、市場で売ることで価値が実現する、という考え方に基づいており、本当にそれが労働の価値なのか、ということは考える必要が出てくるのだろう。
これには、自然労働から市場労働にかけてのグラデーションの中で考える必要が出てくる。まず、自然労働といったときには、既に書いた通り、生きていることが価値であるという考え方になるので、自然労働のおいて交換手段である貨幣が飽和するほどに存在すれば、人々は自由意志において自由に財を生産し、その中で市場で換金しようと思ったものについては市場に出して買い手を待つ、ということになる。
一方で、市場労働とは、たとえ貨幣が飽和していても、さらにそれを手に入れ、欲しいものをどんどん手に入れたい時に、積極的に他者にとっての美人となってその他者のために働き、報酬を得るという労働になりそう。

価値観の違いがもたらしうる分業体制

これらの間のどこに価値を見出すのか、というのは、まさに価値観の問題となり、換金は一切意識せずに財の生産自体に価値を見出すのか、それとも貨幣が飽和状態なのにも関わらず市場で他者のために労働し、それを貨幣換算することが価値なのか、という幅が生じる。人それぞれ価値観が違うことにより、その幅の中で自分に合った場所を探すことで、分業体制が成立するのだと言えそう。つまり、財の生産から市場での換金の間の一体どこに労働の価値を見出すのか、という個人の志向性が自発的分業を生むのではないか、ということである。

現実的問題点

これは、理想的に見えるが、現状では貨幣は全く飽和しておらず、そして失業があることは経済学的には避けられないことになっており、自然労働という状態が実現されていない。さらには労働評価が利益という単一基準で行わているために、義務的になっている市場労働が利益による縛りが非常に大きくなり、美人というのは金を稼いでくる奴だ、という身も蓋もない単一基準が適用されているのだといえる。これによって、労働を市場で換金するために何が何でも利益率の高いやり方で利益を出すという方向に価値観が大きく揺れ、利益率のそれほど上がらない生産行為への評価が低くなり、結果として本来的な意味での生産性は下がる、ということになるのだろう。


労働価値説に従った分業をどううまく作用させるのか、ということはまだうまく纏まらないので、次は積み残しになっている市場について考えることにする。

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