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記憶の狭間を埋める旅(7)

第一次世界大戦の直接的原因(1)

前回までで、第一次世界大戦に至るロングスパンの前史を見てきたが、ここからはいよいよ第一次世界大戦の直接的原因を見てみたい。まずは、前回見た独露再保障条約の延長拒否の事情についてから考えてみたい。

1887年、ドイツ帝国とロシア帝国の協調関係はオットー・フォン・ビスマルクが調えた秘密条約である独露再保障条約により確保された。しかしながら1890年にビスマルクが失脚し、オーストリア=ハンガリー帝国との独墺同盟(1879年)を選んだドイツは、独露再保障条約を失効させた。
この展開は、ビスマルクの後任として宰相に就任したプロイセンの将軍、レオ・フォン・カプリヴィ伯爵によるものであった。

Wikipedia | 第一次世界大戦の要因

レオ・フォン・カプリヴィ伯爵

この決定の背景を考えるためには、レオ・フォン・カプリヴィ伯爵についてみてみる必要がある。

ゲオルク・レオ・フォン・カプリヴィ(Georg Leo von Caprivi、1831年2月24日 - 1899年2月6日)は、プロイセン及びドイツの軍人、政治家。オットー・フォン・ビスマルクの跡を継いで、1890年3月から1894年10月まで帝政ドイツのライヒ宰相を務めた。
1831年2月24日、ベルリンのシャルロッテンブルク地区で生まれる。父のユリウス・レオポルト・フォン・カプリヴィは最高裁判所判事及び貴族院議員を務めた。生家はイタリア系、スロベニア系であり、ドレンスカ地方コチェーヴィエが発祥の地とされている。

Wikipedia | レオ・フォン・カプリヴィ

His mother was Emilie Köpke, daughter of Gustav Köpke, headmaster of the Berlinisches Gymnasium zum Grauen Kloster and teacher of Caprivi's predecessor Otto von Bismarck.

WIkipedia | Leo_von_Caprivi

ということで、名前からも感じられるように、父系がイタリア・スロベニア系、そして母方の祖父はビスマルクの師匠に当たるという。なお、カプリヴィの名は、彼が英国との交渉の結果手に入れた南部アフリカナミビアから内陸のザンベジ川へのアクセスルートに当たる回廊部に残っている。

ヘルゴラント=ザンジバル条約(ドイツ語: Helgoland-Sansibar-Vertrag)は、1890年7月1日に当時のイギリス帝国とドイツ帝国の間で結ばれた条約。イギリス側の名称でヘリゴランド=ザンジバル条約(英語: Heligoland-Zanzibar Treaty)と記されているものもある。
ドイツが、東アフリカのザンジバルと北海のヘルゴラント島を交換したかのように誤解されることが多い。正確には、ドイツは北海のヘルゴラント島とカプリビ回廊(現在のナミビアのザンベジ州)、及びドイツ領東アフリカの核となるダルエスサラームの海岸を獲得した(後のタンガニーカ、現在のタンザニアの本土部分)。

Wikipedia | ヘルゴラント=ザンジバル条約

ベル・エポック

それはともかく、イタリア・スロベニア系の彼がライヒ宰相にまで登り詰めた理由を見出すには、父親の経歴からでは合理的説明ができそうもない。ここで大きな推測を入れるが、この頃フランスではベル・エポックと呼ばれる一時代が展開されていたという。

ベル・エポック(仏: Belle Époque:「美しい時代」)は、厳密な定義ではないが、主に19世紀末から第一次世界大戦勃発(1914年)までのパリが繁栄した華やかな時代、およびその文化を回顧して用いられる言葉である。
19世紀中頃のフランスは普仏戦争に敗れ、パリ・コミューン成立などの混乱が続き、第三共和制も不安定な政治体制であったが、19世紀末までには産業革命も進み、ボン・マルシェ百貨店などに象徴される都市の消費文化が栄えるようになった。1900年の第5回パリ万国博覧会はその一つの頂点であった。
単にフランス国内の現象としてではなく、同時代のヨーロッパ文化の総体と合わせて論じられることも多い。

Wikipedia | ベル・エポック

文中にもあり、前回も見た通り、フランスの政治は混迷を極めていた時期のようにも見えるが、実際には、長きにわたってヨーロッパに君臨し続けたビスマルクがいなくなったことで、ヨーロッパ全体に自由な雰囲気が広まっていたということなのではないだろうか。そうなると、もしかしたらカプリヴィはビスマルクに引導を渡した人物だったのかもしれない。そこでもう少し本人の経歴を追ってみたい。

1849年にプロイセン王国陸軍(ドイツ語版)に入隊し、第二次シュレースヴィヒ戦争(英語版)に従軍した。1866年にフリードリヒ・カールの参謀として普墺戦争に、1870年に第10軍(英語版)参謀として普仏戦争にそれぞれ従軍している。その後カプリヴィは普仏戦争に参加しヘルムート・フォン・モルトケ(大モルトケ)によりプール・ル・メリット勲章を授与され中佐に昇進し、マーズ=ラ=トゥールの戦い、メス攻囲戦、ボーヌ=ラ=ロランドの戦いで活躍した。普仏戦争後はプロイセン陸軍省(英語版)に配属され、1882年にメッツに駐留する第30歩兵師団長に任命される。1883年にライヒ宰相オットー・フォン・ビスマルクの政敵であるアルブレヒト・フォン・シュトッシュ大将の後任として帝国海軍本部長官に就任する。任命はビスマルクによってなされたが、この人事は海軍将校たちからは不評だった。アメリカ合衆国の歴史家ロバート・マッシーによるとこの時点でカプリヴィは海軍問題に興味がなく、彼らの着ている制服の階級章の紋章も知らないほどだった。しかし、カプリヴィは軍官僚として組織管理に優れた才能を発揮した。カプリヴィは海軍本部長官在任中、魚雷艇の開発と製造を強調したが、これはイギリスのモデルより大きな戦艦を支持していたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世との対立の原因となり、最終的には廃案となった。1888年、ヴィルヘルム2世の政策転換により海軍本部長官を辞任し、1890年2月に首相に任命されるまで、ハノーファー駐留にしていた第10軍司令官に転任した。

Wikipedia | レオ・フォン・カプリヴィ

ドイツ帝国海軍

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