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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(31)

ロエスレルの商法草案

明治十四(1881)年四月、『会社条例』草案が脱稿、同月、太政官が商法典編纂を決し、太政官法制部主管山田顕義は、ドイツ人ヘルマン・レースラーに商法草案の起草を委嘱する。
明治十五(1882)年五月、前年に設置された「太政官ニ属シ、内閣ノ命ニ依リ、法律規則ノ草案審査ニ参預」する参事院に商法編纂局が設置され、九月にレースラー草案中、すでに完成していた総則および会社の部分に修正を加えた百六十ヶ条からなる草案を作成するが、不採用となる。
明治十七(1884)年一月、レースラー商法草案が脱稿する。
同年五月、商法編纂局が閉鎖され、会社条例編纂局が設置される。

前回は、明治十四年の『会社条例』草案についてみたが、それを受けて動き出したと言えるのか、太政官の商法典編纂の動きが始まった。そこで、その草案の起草を委嘱されたレースラー(ロエスレル)と、その商法草案について見てみたい。なお、草案と旧商法の段階での状況までしか読んではいないので、その後の状況変化をどこまで反映しているのかは確認をとっておらず、したがって現在の状況とは異なっているかもしれないので悪しからず。

山田顕義

まず、ここでは山田顕義の名前が出ているが、その背景を考えてみたい。ロエスレルがドイツ人であることを考えると、おそらく元々はプロイセンとのつながりの深い井上毅の線で進んだ話であろうと思われる。ただし、ロエスレルはプロイセンではなくフランスとの繋がりが強い南ドイツバイエルン王国の出身で、日本からの帰国後にはウィーンに住んでいるということで、ヨーロッパ歴訪時にパリ、ベルリンと共にウィーン万博もみているという山田顕義のつながりで呼ばれた可能性も十分にある。山田は、それまでの軍中心のキャリアからその後に急速に法律畑に舵を切っていることを見ても、人的繋がりとしては山田の存在があったのではと考えられる。伊藤はプロイセン式の皇帝の力が強い制度は望んでいなかったとされ、その辺りの様々な事情があってロエスレルが選ばれたということになるのではないか。

草案概略

では、そのロエスレルの憲法草案(以下草案)を、引き続き『日本会社立法の歴史的展開』からみてゆきたい。この草案は、1133ヶ条からなる大部のもので、そのうち会社法は第一編第六巻「商社」において合計243条の規定からなっているという。内容は、「総則」、(匿名組合)、第一章「合名会社」、第二章「差金会社」、第三章「株式会社」に分かれており、当時のドイツ法やフランス法と比較して草案の条文数が多いことが目立つという。なお、明治二十三年商法の(以下旧商法)会社に関する規定は、第一編第六章「商事会社及ヒ共算商業組合」の中で、「商事会社総則」、第一節「合名会社」、第二節「合資会社」、第三節「株式会社」、第四節「罰則」からなっており、条文数は199で草案より少なくなっているのは主として株式会社に関する規定の減少によるという。以前に見た福沢諭吉の会社解釈が広まっていた中では、草案において会社、特に株式会社についてどういうものなのか、というのを明確に説明する必要があったのかもしれない。

会社総論

会社総論から見てゆくと、これは、1861年普通ドイツ商法典や1807年フランス商法典には見られない特徴的な会社立法形式であるという。ドイツ旧商法には会社総則は存在せず、フランス商法典では会社に適用されるべき法源に関する規定と会社の種類を三つとするという規定の二つがあっただけで、1867年フランス会社法では会社の公示制度に関する規定ができたという。一方で、日本の商法では、草案で商社の定義に関する規定や設立立法主義を定めた規定などを含めた五ヶ条、旧商法で設立立法主義が準則主義の原則から免許主義に変わったことなどの八ヶ条の総則規定があったという。

商社の意義

続いて、商社の意義についてだが、草案で商社、旧商法では商事会社と呼ばれているものは、ドイツ法でHandelsgesellschaftの訳語で、「共同シテ商業ヲ営む為ニノミ」設立することが認められた。また、草案七十一条「各商社ハ特別ノ財産ヲ有シ又独立シテ権利義務ヲ有スルモノトス殊ニ社名ヲ以テ金銭ヲ貸借シ動産不動産ヲ所得シ又訴訟ニ付テハ原告又ハ被告トナルヲ得ヘシ」、旧商法七十三条「会社ハ特立ノ財産ヲ所有シ又独立シテ権利ヲ得義務ヲ負フ殊ニソノ名ヲ以テ債権ヲ得債務ヲ負ヒ動産、不動産ヲ所得シ又訴訟ニ付キ原告又ハ被告ト為ルコトヲ得」とあり、これによって商社は法人であると読むことができるが、ドイツでは類似の規定を持つ合名・合資会社につき法人ではないと解するのが通説であるとのこと。法的に自然人に準ずる特別な扱いが定められているのにも関わらず法人ではないという解釈をしうるものかは疑問が残るが、その解釈可能性に至った理由を考えるのは興味深い。草案におけるロエスレルの「商社ハ無形人ニ非スト雖モ法律上ニテ無形人ノ如クニ見做サルルコト往々之アリ」という言葉から考えると、その前に「真成ナル意義ニ於テノ無形人ト断言スルナシ」とあることから、ドイツ法では法人ではないとしているが、けれども法律上では法人のようにみなされることもある、という意味であり、ロエスレルが草案ではドイツ法とは違う法人定義をしているのだ、ということを強調するためのレトリックであると考えるべきだろう。
又、旧商法と草案との間の事情の違いとして、同じく明治二十三年に旧商法の前提となった旧民法が交付され、「会社」の定義も旧商法ではなく旧民法財産取得編に規定が設けられていたということがある。旧民法では組合契約のことを「会社」と読み、営利を目的とする組合のことだとのこと。草案では匿名組合を匿名会社と訳しているようで、会社という用語は商事会社のみならず現行民法における組合をも含む広い意味で用いられていたのだという。この辺りも当時の会社というものの実像を考えるのに興味深い。

会社の種類

会社の種類としては、草案では、合名会社、差金会社、株式会社の三つの形態が認められていたという。このうち、差金会社について、当時の一般的用語法によれば、差金会社は現行法の合資会社を意味していたが、草案の差金会社は独特の性質を有しており、有限会社に類似した会社であったという。つまり、草案には現行法条の合資会社が欠けていたことになる。さらにはロエスレスは当時のヨーロッパ大陸で一般的に見られた株式合資[差金]会社を、「此会社ハ業務担当者ニ限リ無限ノ責任ヲ有スル所ノ株式会社タルニ外ナラス然ルニ何故ニ差金者[有限責任社員]ハ此会社ニ在テハ株式会社ノ株式ト異ナリタル地位ニ立タシムルヤ又何故ニ些少ナル差別ノ為メニ特別ニ会社ノ種類ヲ設クルヘキヤ其理由の視ルヘキモノナシ」として採用しなかったという。旧商法も会社の種類としては基本的に草案と同じ三つを認めていたが、草案の商事会社は明治十九年の「商社法」以降合資会社と称されることとなり旧商法もその用語を受け継ぎ、だからは合資会社は草案の差金会社とほぼ同じだという。最終的には、明治三十二年商法で「会社は合名会社、合資会社、株式会社、及ひ株式合資会社ノ四種トス」となったという。
なお、商法は商事会社を対象とし、民事会社は民法の対象であるが、株式会社はその目的が商業を営むものでない場合でも商事会社と看做され、いわば民事株式会社が認められているという。

合名会社

合名会社について、草案ではその設立には必ず契約書を作成し、総員が署名した契約書一部を各社員に交付しなければならない旨を定めており、一方旧商法では合名会社は書面契約によってのみ設立でき、その契約書は総社員がこれに連署し各自一通を所持する旨を定めており、その趣旨は両者共に合名会社の設立行為は設立者相互の契約であるとし、これを会社契約と称しているのだとしている。草案では会社を設立した時には設立後十四日以内にその旨を登記及び公告しなければならないとし、旧商法では登記は第三者に対する対抗要件である旨が明示された。
ヨーロッパ大陸の制度にはない規定として、合名会社の社員数は二名以上七名以下と定められ、その責任として、草案では「会社ノ義務ニ就テハ先ツ会社財産ヲ以テ之ニ充テ次テ各社員ノ全財産ヲ以テ充ツヘシ」として無限責任が定められているが、ロエスレルはその負債の主は会社で各社員ではない、と注記している。これはドイツ法では社員に連帯責任を負わせているのに対して会社財産で支払うことを優先させることを徹底する為だと見られ、ロエスレルの会社法に対する考え方を如実に示している。旧商法ではロエスレルの考えが採用されたが、明治二十六年の会社法で「連帯」の文言が入ったことで社員の責任が重くなり、ロエスレルの努力は無に帰してしまった。なお草案及び旧商法共に、フランス法と同じく合名会社の商号に社員の氏名を用いることを定めており、前回見た『会社条例』案で議論になっていた人名会社の問題の決着がここでついたのだと言えそう。

差金会社

差金会社について、草案では「凡商社ノ社員中一名又ハ数名ノ責任上他ノ契約アルニアラサレハ総社員ハ差入財産ノミヲ以テ責任ヲ受ル者之ヲ差金会社ト為ス」と定め、差金会社社員の有限責任と別段の定めによって無限責任の社員を一名ないし数名設けることができるとしている。差金とは金銭を差し出すという意味だという。「会社ノ義務ニ就テハ会社財産及ヒ本姓ヲ社名ニ加ヘタル社員ノ全財産ヲ以テ充ツヘシモノトス又未タ会社ニ差金ヲ払込サル社員ハ此差金高ヲ其義務ニ充ツヘシ」とし、社員の責任が直接責任であることを示している。このように、草案の差金会社は現在の有限会社だと言えるが、社員の責任は直接有限責任なので、それは現行商法の合資会社の有限責任社員のそれに近いという。なお、明治二十六年商法で、業務担当社員が無限責任を負うことを定めた為、この合資会社には無限責任社員が加わるのとほぼ同義となったという。

設立立法主義

会社設立の立法主義について、草案では設立準則主義を採用し、免許主義は例外とした。これについて、ドイツやフランスでは免許は考えにくく、特に合名会社や合資会社が法人ではなく組合であると解されてきたドイツでは免許という考え方自体出てきにくいとのこと。あるいは日本では座のような免許制度が伝統としてあったために、そこから出てきた考えであろうか。このあたり、同じ同業者組織でもギルドと座との性質の違いが現れているのかもしれない。ただ、Wikipediaの英語版によると、ドイツはどうなのかわからないが、ギルドも王や国から免許を得ていたということで、そうならばその違いということには起因しないことになる。

株式会社

では最後に株式会社について外観してみたい。草案では、株式会社の定義規定の中で四つの要件が挙げられているという。第一に株式会社は商社で、第二に社員は七名以上、第三に会社の財産は株式から成り立ち、第四に会社を代理(代表)するのは株主ではなく他の組織体(機関)であるということだ。草案では株主の責任が有限で、社名に責任有限なる旨を附加することを求めているが、ロエスレルは株式会社の特徴として株主の有限責任を挙げることに反対で、株式会社においても無限責任を定めることができ、その例としてイギリス法を挙げた上で、無限責任の取締役を定款で定めることを認めているという。当時としては画期的なのだろうが、特定個人に無限責任を負わせることが、特に現代的な公開市場で取引される株式会社制度にとって株主の暴走に歯止めをかける物になっているとは到底言えず、むしろ有限責任の株主を甘やかすことになりそう。ただ、会社の信用としては、最後に無限責任があるということは非常に大きな意味を持つ。この辺りはロエスレルの時代の株式会社の位置付け等を含めて次回もう少し考えてみたい。
株式会社の設立については、草案では原則として準則主義によるが、旧商法ではすべて政府の免許を要するとされた。この設立免許主義は明治三十二年商法によって廃止されているが、そのために会社の設立をどこにするのか、という議論がわかりにくくなったと言えそう。それは、旧商法で設立の登記は設立の効力を第三者に対抗する要件であり、登記の有無は設立の効力の発生とは関係がない、と定めたためで、免許がなくなった以上、登記を設立効力の創設と結びつけるのが合理的ではないかと考えられる。
株主総会については、1867年フランス会社法によって五ヶ条の総会に関する規定を定めているということで、それを受けて草案でも六ヶ条の草案に関する規定を設けている。取締役については、草案では頭取という用語が取締役を意味するものとして用いられ、取締役という用語は監査役を意味していたというが、ここでは現在の通りの意味で用いる。草案によれば、取締役は、会社の代理であり、株主の権利として総会で三名以上が定款で定められた数の株式(資格株)を有する株主の中から選挙される。取締役に資格株を要求するのは英仏法に倣ったもので、資格株の処分禁止は1867年フランス会社法に倣ったものだとされる。監査役については、草案では任意機関だが、旧商法では必要機関となっている。これは会社の設立が免許主義に変わったためのようだ。

ロエスレルの商法草案全体については、その編別はフランス的方式だが内容は1861年ドイツ普通商法典を重視し、旧商法についても、その編別は仏法系だが、内容は独法系に属するとされている。草案の「商社」の内容はドイツ旧商法に概ね倣っているとされながら、イギリスのそれから多くを学んだ物だとの指摘もあるとのことで、ロエスレルという独仏どちらともつけ難いパーソナリティから欧州の法体系を幅広く見渡す草案ができ、それが最初の商法に大きく影響したことは、日本の法体系にとっては僥倖であったと言えるのかもしれない。

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