社会の役割

現在支配的な社会の基本思想は功利主義、つまり自己の効用を極大化するように行動する、ということではないかと考えられるが、個々人が自己の効用を極大化するように行動すれば、当然稀少資源をめぐって競争や奪い合いが発生することになる。つまり、個人の効用極大化を個人の行動原則として定めるのならば、社会の基本原則は、それによって生じる弊害を無くしてゆくものにしないと、弊害部分がどんどん社会を侵食してゆくことになってしまうのではないだろうか。

効用極大化

まず個人の効用極大化が最優先として正当化されるべきか否か、ということが問われることになりそうだが、個人の効用極大化自体は、人生の充実のためには当然のことであると言え、それを妨げることは誰にもできないはずである。しかしながら、こちらで書いたように、それは自由と権利との微妙な問題を引き起こす。つまり、自由のために他者の権利にどれだけ干渉できるのか、という問題が発生するわけで、効用極大化を絶対原理としたら、他者の権利に顧慮せず、他者の反発が効用を上回るまで、あるいは稀少資源の争奪戦となるまでその極大化を進めることになりそう。他者の権利を極大化原則の中に一般化して取り込むことは、個々の権利の違いを考えると非常に難しいことになる。だから、個人の効用極大化が最優先として正当化されるべきなのか、ということは大いに疑問であると言わざるを得ない。

外部不経済調整による効用極大化の最適化

効用の極大化が一般化して適用できそうもないとすると、個人の行動原理としての効用極大化の弊害、つまり、効用極大化に際して起こる外部不経済について社会の方で調整するという機能が必要になるのかもしれない。前回書いた悪意の付け替えではないが、効用極大化の結果として他者に余計なコストを押し付けるということが発生するのかもしれない。そうした外部不経済は、被害を受ける当人にとって全く関係のないことかもしれず、そして対応する能力、あるいは余裕がないかもしれない。そのような不当なコストを、嫌という意志表示をすることで調整がなされるような社会の仕組みになれば、原理的には効用極大化を効率的に達成できそうに感じる。

政治依存解決の限界

もっとも、ある人が嫌といったことが自然に解決されるメカニズムというのを考えるのはそれほど容易ではない。現在の仕組みとしては政治がその嫌という声を拾い、それを解決するような政策を立てて実行することで解決する、ということになっているが、政治は結局権力であり、権力に依存することで悪意の配分に手を貸すことになるというのも前回見た通りである。

干渉自重が働く安定社会

一番真っ当な方法は、嫌といったところで干渉している人がその干渉を止めるということである。それによって、コストがかかることなく功利主義の不干渉均衡が成り立つことになる。これが実現できる世界は、相互信頼度が高く、非常に安定した社会となりそう。

嫌な理由と事情の公開による相互作用活発化解決

問題は、嫌といっても干渉をやめない、あるいは干渉をしている相手がわからない、といった状況の時だ。この場合には、まず何がなぜ嫌なのかを明確にし、それが自分で解決できる問題なのかどうかを確認する必要がありそう。自分で解決できそうならばとりあえずできるところまでは自分でやってみるということが求められるだろう。それでできなければ、嫌な理由と自己解決できなかった理由をオープンにして、それによって生まれる相互作用によってそれを解決してゆくという方向が模索されるのかもしれない。

この場合、この相互作用の発生をできるだけ効率的に行えるようにする、というのが社会の役割となってゆきそう。つまり、単純化すれば、悩み事相談ができるだけ活発に行われるようにする、という身もふたもない話となる。悩み事が打ち明けられない主たる原因は、弱みを見せたらつけ込まれ、負け組に入る、といったおそれであると考えられ、すなわち功利主義に基づく競争社会というものが、嫌という意志表示を妨げ、嫌なことを充満させていると言えるのではないだろうか。

競争の弊害

これを考えると、社会において競争というのは何ら効率性や合理性を実現するものではなく、むしろ個別の合理的行動原理を大きく阻害し、そしてその阻害原因を考察する余裕をなくしてしまう、有害無益なものではないだろうか。相互作用を阻害し、自意識の優先を強く押し出すよう強いる競争原理は、人と人との協力関係による不快さ要因の除去を難しくするどころか、相手の弱みを責めるなど、むしろ不快さを増す要素がふんだんにある。世に不快さを撒き散らすための競争を社会の駆動原理とすることは大きな誤りであろう。

社会全体の不快さ極小化

個々の不快さを最低限に抑えることを社会の基本原理とし、自分の不快さについて、そしてその不快さから抜け出す方法について積極的に情報交換が行われ、そこから関係性が広がってゆくというようにすることこそ、社会がその役割を果たすことになるのではないだろうか。そして、不快さセンサーは千差万別であり、その感じ方こそ個性がもっともよく現れると言えそうで、お互いの不快さの感じ方を尊重することによって、社会全体の不快さを極小化しながら個々人の功利主義の追求を行うことができるのではないだろうか。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。