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【Lonely Wikipedia】アメリカ・リコンストラクション

南北戦争後のアメリカのリコンストラクションについてみてみたい。

と思って、少しはまっとうな話が出てくるかと期待して調べてみたのだが、全体的にどうしようもない。今のアメリカのご都合主義の原点のようなものが、ここに凝縮されていると言ってもよさそう。ただ、グラントについては、Wikipediaで書かれているよりもはるかにまっとうな大統領であるように見受けられる。

リコンストラクション(Reconstruction,「再建」の意味)とは、アメリカ南北戦争によりアメリカ連合国と奴隷制システムが崩壊した後の問題を解決しようとする、1863年(または1865年) から1877年までの過程を意味するアメリカ合衆国史の用語である。リコンストラクションの間、連邦政府は南部諸州の合衆国への復帰と、元連合国の指導者たちの地位の回復に取り組んだが、解放されたアフリカ系アメリカ人(自由黒人) の法的、政治的、経済的、社会的なシステムでの、恒久的な平等の実現には失敗した。

1863年12月8日に、リンカーンによって出された合衆国大統領布告によって、南部連合国に参加した州のうち、1860年の投票者数の10%が合衆国への忠誠を誓い、奴隷廃止を果たすと約束した州は合衆国に再統合できると定められた。共和党の急進派はこれが緩すぎるとして反発し、かつて所属した連合国には戻らないという厳しい宣誓を多数派が行うことを求めるウェイド=デイヴィス法が翌64年に議会で可決されたが、これにはリンカーンが拒否権を発動した。

65年4月にリンカーンが暗殺されると、副大統領のアンドリュー・ジョンソンが大統領となった。ジョンソンは合衆国から脱退した南部テネシー州出身の上院議員で、辞職しなかった唯一の南部出身上院議員となった。タカ派民主党に属しながら、64年の選挙でリンカーンの副大統領候補となり、そのまま65年3月4日に副大統領となったが、翌月15日にはリンカーンが暗殺されて大統領となったのだった。一期目の副大統領がより奴隷解放に積極的なハンニバル・ハムリンだったことを考えると、リンカーンという人物は、奴隷解放の良いところを自分で全てとってしまい、その上で再選されながら奴隷解放に消極的になると十分予測される副大統領を立てて、現実的には奴隷解放がほとんど進まないまま暗殺された事になる。
急進派は、当初奴隷解放に前向きだったジョンソンに期待したが、彼も急進派の南部に厳しい要件を求める案を拒否した。その背景を見れば、副大統領になるために本来の立場を隠していたと考えられ、ことによるとリンカーンの暗殺にも関わっているのかも知れない、という疑いは、その後の行動からも捨てきれない。急進派は、ジョンソンが行おうとしたリコンストラクションを突然終わらせることに反対し、全ての国民が法の下に等しく守られる1866年公民権法を可決したが、ジョンソンはこれにも拒否権を発動した。それに対して議会は奴隷制廃止を定めた合衆国憲法修正第13条を支持する法案を可決し、これもジョンソンによって拒否権を発動されたが、両院で2/3の多数派を得て、大統領署名なしで成立させた。

南北戦争以前から黒人奴隷を取り締まるための「黒人法(Black Code)」が南部を中心に施行されようとしていたが、これは66年に公民権法の成立によって禁止され、それは解放奴隷局によって法的に支持されたのでほとんど施行ができなかった。これに対して66年には南部のメンフィスやニューオリンズで黒人に対する暴力が起こり、共和党急進派はこれに対して連邦の迅速且つ強い対応を求めた。
議会は合衆国憲法修正第13条に続いて修正第14条を可決し、元奴隷の市民としての権利をより広範に盛り込んだが、ジョンソンはその批准を拒絶するよう南部諸州に推奨し、テネシー以外の南部州と北部からも3つの州がこの批准を実際に拒否した。
その年11月の選挙で共和党は2/3の議席を獲得し、ジョンソンの拒否権を無効化することが可能となった。67年にはジョンソン大統領の拒否権を覆して在職期間法を成立させ、大統領によって任命された上級職をその任期中に上院の同意なしに解任することができなくした。
議会は、数の力を背景に4本の法律からなるリコンストラクション法を可決した。これにより、南部への軍管区の設置、合衆国議会によって承認された州法の草案づくり、連邦修正第14条の批准、そして黒人への投票権付与が定められた。ジョンソンはこれにも拒否権を行使したが、それも当然覆された。これによってようやく奴隷解放への実際的な仕組が整ったことになる。
68年に戦争長官を解任しようとしたジョンソンに対して、在職期間法の違反で弾劾決議が出された。それは、下院は通過したが、上院では成立に1票たりず、辞任は免れた。しかし、ジョンソンのレイムダック化は免れなかった。

さて、リンカーンの時代は、南北戦争の展開にあわせて、副大統領のハンニバル・ハムリンの力もあってか、多少なりとも奴隷解放の動きは進んだのだが、次第に急進派が力を得ると、はじめから穏健派であったリンカーンは腰砕けになって行き、リコンストラクションの名で南部の復帰を優先させる動きに出た。64年の選挙では勝ったものの、副大統領に南部出身のジョンソンを据えることで、事実上南部に妥協的な姿勢となった。結局リンカーンはすぐに暗殺され、そして暗殺後にそのジョンソンが大統領となることで、急進派との対立が先鋭化し、奴隷解放もリコンストラクションもほとんど進まなくなってしまった。
このあたりに人を選ぶという間接民主制の悪いところが顕著に出ている。政治に詳しくない一般有権者は、派手な奴隷解放宣言まで行ったリンカーンは当然奴隷解放に前向きであろうと考えるのだが、リンカーン自身はそのイメージを利用しただけで、その後に口では奴隷解放に前向きであると示唆していたジョンソンが大統領となって、中心的なテーマだったはずの奴隷解放は事実上棚上げ状態になってしまったのだ。そして、リコンストラクションというのが、南部の早期復帰と言うことにどんどんすり替わり、なし崩し的に南部の言い分が通るようになって、一体何のために戦争までしたのかわからなくなってゆく事になったのだ。
これは、前回見たプロイセンの、戦で勝たなくても戦後交渉で領土は広げてしまう、というやり方との共通性が見られ、やはり、サウスカロライナ辺りにフランスと関わりのある勢力が上陸し、そこに居着いた中に、そのように政治力で何となく自分たちの都合の良い方に動かしてゆく、という事に長けた人々がいたように感じられる。間接民主制はこのような政治的テクニックを持った人々に有利に運ぶので、非常によろしくない政治制度であると私は考える。

さて、議会で多数を握った急進派の流れに乗るように、次の大統領は共和党から北軍の英雄、ユリシーズ・グラントが選ばれた。グラントは議会の可決したリコンストラクション法を支持して、議会と協力関係を築いた。
ジョンソン大統領退任間近の69年2月26日に憲法修正第15条が提案され、ジョンソンは最後の執務日の前日にホワイトハウスで退任セレモニーを開くという、子供の喧嘩のような終わり方で任期を終え、それに対して次期大統領のグラントは慣例の馬車同乗を拒否した。修正第15条は翌70年2月に可決されて解放奴隷を含めた普通選挙が定められた。
69年に大統領になるとすぐ、グラントは州法がこの修正第15条に従って選挙権を保証していることを確認した上で、ヴァージニア、ミシシッピ、そしてテキサスの合衆国への再加盟を認めた。グラントは、最後に残ったジョージアに対して軍事的圧力をかけ、修正第15条を受け入れさせ、それによって71年2月24日にジョージアからの上院議員が全ての連合州を代表して議席を回復した。南部の州は急進派によって支配されていたが、グラント退任後の1877年までには保守的な民主党がその地域を完全に支配するようになり、リコンストラクションは死んだ。
1870年には、リコンストラクションを補強するために、議会とグラントは、司法局を作った。グラントの任期二期で、連邦の司法能力は強化され、州が問題を無視しても公民権を守るために直接介入を行うようになった。
1870-71年にかけて、議会とグラントは一連の強力な公民権強化法を通し、黒人とリコンストラクション政府を守るようにした。特筆すべきは、クー・クラックス・クランと戦うクー・クラックス・クラン法だった。これによって、クランメンバーの訴追ができるようになり、それに打撃を与えた。
一方で、グラントは1872年に恩赦法を出し、南部との和解にも取り組んだ。そんなグラントの最後の大仕事は、1875年公民権法だった。それによって公共の場所での黒人差別が禁止されたが、それに恐怖を覚えた南部人によってこれは1883年に最高裁でひっくり返された。その後、南部は南北戦争以前のひどい黒人抑圧の状態に逆戻りしてゆく。
1870年までには、ほとんどの共和党員が戦争の目的は達成されたと感じ、彼らの目は経済政策のような他の問題に移っていった。グラントは、公務員の立場を上げる改革に積極的に取り組んだが、それによってスキャンダルが次々発覚した。1873年に経済パニックが発生し、南部の経済は打撃を受け、共和党への幻想が冷めていった。その為、74年の選挙で共和党は全国で96議席を失った。民主党が議会を支配するようになると、さらにスキャンダルが表に出るようになった。これは、民主党による政局含みの露出工作であったと考えられ、グラントの二期目はそのスキャンダル対応に多くを割かれることになった。それによって南部の民主党は息を吹き返し、それに呼応するかのように黒人に対する暴力が吹き荒れるようになった。

1876年の大統領選挙は、共和党のヘイズが勝つには勝ったが、疑惑が残り、南部がリコンストラクションの終了と引き替えにヘイズの勝利を受け入れたとの噂も流れた。実際ヘイズは77年の就任直後にルイジアナとサウスカロライナから軍隊を引き上げた。それによってリコンストラクションは終わりに向けて動き出した。

なお、この時期は、金ぴか時代と呼ばれ、経済は急成長した。一つには南北戦争の復興需要というものがあり、それが北部での急進派の人気維持拡大につながったと考えられる。1867年からミネソタのアイアン・レンジと呼ばれる地域で膨大な鉄鉱石がとれるようになり、それをアパラチア山脈の石炭と結びつけて、運河と川によって水運が優れていたピッツバーグで鉄鋼業が大規模化し、鉄道建設に弾みがついた。69年にはオマハとサクラメントをつなぐ最初の大陸横断鉄道ができ、どんどん鉄道網が広がっていった。これがアメリカの高度成長の中心となっていた。

一方で、西部開拓が進むにつれてネイティブインディアンとの摩擦は激しくなり、南北戦争の間にも、実は南との戦いとは別に、先ほど出たミネソタ州でスー族を皆殺しにするような勢いでインディアンを追い詰めており、アメリカの発展に欠かせなかったミネソタの鉄鉱石はそのように血まみれになって手に入れられたのだと言える。アメリカの高度成長について考えれば、リンカーンの主導したこの虐殺は南北戦争以上に注目されるべきものであろう。むしろ、リンカーンの行動を見れば、ミネソタでの鉄鉱石を手に入れるためにインディアンの虐殺が必要となり、その目眩しのために南北戦争が起こされたのだ、とすら考えられる。
その後、ジョンソンの時代もインディアンとの戦いが非常に激しかった。軍人出身ながら戦いよりも平和的な手法を好んだグラントの時代は多少落ち着いたものの、その終盤、グラントがスキャンダル対応に追われるようになってから、さらには大統領が変わったヘイズ以降にはまたひどくなり、その後20年でインディアンはほぼ完全に自由を失った。奴隷解放の美名の裏では、このようなインディアンへの強い抑圧が、かなりの部分政治絡みで、同時進行で進んでいたことも見逃すことはできないのだろう。

*黒人やインディアンという表記についてポリティカル・コレクトネスとして現代的には余りふさわしくないのかも知れませんが、特に黒人についてはその表現を変えてしまうと南北戦争の本質から離れてしまうように感じるので、そのままの表記とします。


Photo from Wikipedia 1970s

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