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【世界の中の日本】小栗忠順

動乱の時代には、人の本質というものが明らかになるので、のちの虚名に惑わされることなく、一つ一つの行動をしっかり見極めてそれぞれの人物評価を行う必要があるのだとわかる非常に良い例として小栗忠順と一橋慶喜という好対照の人物を取り上げてみた。

小栗の登場

ここで、日本側から、小栗忠順という人物が出てくる。小栗は万延の遣米使節の一員として万延元(1860)年にアメリカに渡った。そこで、貨幣に含まれる金銀純度の違いから金と銀の交換比率について問題提起し、アメリカ側で賞賛されたという。その問題自体はハリスとのやりとりの中でずっと問題になっていたことで、特に小栗が気づいて問題提起したわけではない。これはおそらく、日米修好通商条約の時に、岩瀬忠震が批准書の交換をアメリカ・ワシントンでやりたいと言ったことと大いに関わっている。その時点で、交換比率が不公平であることは明らかだったのだが、ハリスに押し切られる形で比率は定まった。それについて、アメリカ本土でデモンストレーションして、その不公平さをアピールする、というのが岩瀬の考えたことではないかと考えられるのだ。遣米使節は、目付の小栗も含め、正使の新見、副使の村垣と、それまでの江戸幕府において余り名のある名門、という感じを受けない人々が務めている、これは、外国との交渉に出向くのに、家の名を背負ってゆくというのはリスクも大きいので、仮名を付けて行った可能性があるのではないだろうか。その中でも小栗は、銀の含有率についての交渉に行くということで、貨幣鋳造の実務経験がなければ務まらないのではないかと考えられ、だから、両替商か吹替職人の関係者が仮名で目付として使節に参加したかもしれず、元は武士ではなかった可能性がある。そして、その交換比率についての交渉はアメリカで賞賛されたと言うことで、ある程度名前は売れ、それがあって、帰国後に士分に取り立てられたのではないかと考えられる。

高炉建設の夢

さて、小栗は、真偽はともかくとしてアメリカに行った時にねじを土産として持ち帰ったとされる。金銀の比率をアメリカ人と議論したように、鉱物についての知識は深かったのであろうと考えられる。その小栗が鉄に関心を持ったという事で、おそらく当時日本にはまだなかった高炉の技術導入を考えたのではないだろうか。たたらで用いる砂鉄では大砲を作ることはできなかったようなので、鉄鉱石から鉄を取り出す高炉がどうしても必要になったのだろう。薩摩では斉彬の時代に高炉が既に作られていたともされるが、その技術導入経緯は不明で、反射炉と同時進行で高炉を入れられるとも思えないし、今残っている遺跡からも高炉の痕跡はなさそうなので、その事実はないと考えられる。小栗は、そんな新技術である高炉を、鉄鉱石のとれた上野国の中小坂鉱山のそばに作ろうとしたのであろうと考えられる。アメリカに行ったのだから、アメリカで何らかの情報を仕入れ、それを基に作ろうとしたのではないかと考えられるが、そこにフランスが介入してくることになる。

ライバル 栗本鋤雲

そこで注目したいのが、小栗がアメリカからの帰国後外国奉行を務めている間に製鉄所御用掛を務めたともされる栗本鋤雲だ。医師であった栗本は、開港間もない函館に行き、そこで様々な近代的技術導入を行った。栗本が函館に行った理由は、オランダから寄贈された観光丸に試乗しようとした事だとされる。観光丸については、以前に書いたとおり、開国の条約締結がらみでオランダが幕府を買収しようとしたものであると考えられる。そして、函館を開発するにしても、それに先立つのはやはり資金であり、仮に左遷されたのだとしたら、例え幕府からその予算が出たとしても、それを管轄できる立場であったとは到底思えない。だとすると、別のルート、つまりオランダが金を出して、函館で「近代化」モデルを提示することによって、オランダの意図に沿った開国をさせようとした可能性が考えられる。ここで、前回名前の出たクリストファー・ホジソンが関わってくるのではないかと考えられる。ホジソンは、イギリスの総領事でありながら、フランスの領事も兼任していたと言うことで、かなりの威圧感を持って現地におもむいたのではないかと考えられる。その為か、1年ほどで金に関わるトラブルで函館を追われたとされる。この金が、函館の開発資金に関わる何かだったのではないだろうか。

怪僧 メルメ・カション

その頃函館には、フランスの宣教師メルメ・カションも来ており、栗本はそこで彼と知り合ったとされる。メルメ・カションは、日本語は達者だったらしいが、宣教師といいながらも、商売のようなことをしてかなり怪しい人物だとみなされていたようだ。栗本が誘われた観光丸の試乗とは、このような怪しげな人脈の絡んだ函館の開発に関わることだったのではないか。そして、その観光丸を幕府に譲ったオランダは、対立関係であったと言えるパーマストン政権下のイギリスではなく、ナポレオン3世政権下のフランスと日本をつなげることで、アジア政策を有利に運ぼうとしたのではないかと考えられる。そこで函館に後にロッシュの通訳となるメルメ・カションを迎え入れた、あるいは送り込んだのではないかと考えられる。メルメ・カションは琉球で日本語を学び、その流暢さで驚かれたとされるが、琉球仕込みの日本語が即流暢な日本語であると江戸で理解されるのは難しいのではないかと考えられる。それは、琉球に一定数の江戸で通じるような日本語を教えられる存在がいた、あるいは琉球とは別のところで日本語を学んだ、という両方の可能性がある。前者ならば、鎖国の建前とは別にアジア方面にかなりの日本人が展開していた可能性を示唆するものであるし、後者ならばオランダとつながって出島などに出入りしていたと考えるのが一番現実的だろう。いずれにしても、開国前の日本とつながるためには、オランダと関わっていた可能性は高く、そこでフランスの投資を呼び込む為のカードとして函館に迎えられた、あるいは送り込まれたのではないかと考えられる。

一橋慶喜とフランス

函館を含んだ蝦夷地は、昔から水戸藩が非常に強い関心を持っていたところであり、そこで栗本が一橋慶喜とつながり、それによって水戸、一橋慶喜とフランスとの関わりが生まれたのかも知れない。そこで栗本が一橋慶喜を抱き込む形で、小栗の高炉建設案を、慶応元(1865)年に始まった横須賀の造船所計画に切り替えたのではないだろうか。栗本は、函館から戻ると製鉄所御用掛となり、その後、外国奉行、勘定奉行、箱館奉行を兼務するという、左遷から戻ったにしては異例という言葉では表せないほどの大出世をしている。最初に製鉄所御用掛というおそらく新規に作られた役職についているが、これは本来ならば小栗が勘定奉行として携わっていた仕事で、文久3(1863)年に横須賀で建設許可が降りたとされるが、実際には製鉄所予算として小栗が持っていたものを、栗本らが造船所に付け替えようとして、並行で計画を動かし始めたのではないか。その上で、小栗と同格の勘定奉行の上に外国奉行と箱館奉行まで兼任することになり、それによって、外国、特にフランスとオランダの力をバックに小栗案からの切り替えをはかったのではないかと疑われる。日本側では、それに一橋慶喜と水戸藩閥が後押しをしていただろう。

外国事務取扱 松平康英

元治2年3月6日(1865年4月1日)には、ロッシュを責任者とし、その秘書で通訳のメルメ・カションが事実上の校長となって横浜仏語伝習所が設立された。これは外国奉行の管轄であろうから、小栗とは関係なく、栗本が独断で進めたものであろう。これが問題となったか、改元後慶応元年4月12日に老中となったばかりの棚倉藩主松平康英が同月25日に外国事務取扱を命じられている。旗本時代に外国奉行も務めているので、確かに適任者にも見えるのだが、前年末に亡くなった康泰の跡を継ぎ、没後1月以上も経って年を越した挙句、全く関係のない他家から末期養子どころか乗っ取りに近い形で棚倉藩を継いだばかりで、その直後に奏者番兼寺社奉行に任じられ、しかも老中になる直前、仏語伝習所設立の2日後の3月8日には、宇都宮への転封を命じられていた。この頃の宇都宮は戸田氏が入っていたのだが、戸田氏は生麦事件の直後文久2(1862)年閏8月より山陵の保全に力を入れており、それによって、幕府からの資金だけでは足りず、藩の財政は大きく傾いていた。そこで陸奥棚倉に目をつけたのだ。棚倉は左遷のための藩だともされるが、奥州への玄関口という交通の要衝にあたり、代々譜代の名門が入っている地であり、戸田氏が国替えできなかったので悔し紛れに言っている可能性が高い。そして、戸田家当主戸田忠恕は、前年の元治元(1864)年、天狗党の乱の鎮圧を命じられながら勝手に帰陣し、幕府から2万7千石の減封を命じられた。この天狗党の乱の鎮圧の主力となったのが棚倉藩であり、そして藩主康泰がその鎮圧から一月余りでわずか16歳にして没し、その後に入ったのが康英ということになるのだ。この戸田忠恕の義理の叔父がのちに松平康英の養子になっている。要するに、宇都宮藩戸田氏が幕府の金を勝手に使い込むために、天狗党の乱の鎮圧に大功のあった家に外国奉行経験者を送り込んで老中とし、それによって下関戦争の賠償金のおこぼれに預かろうと暗躍していた可能性が高いのだ。天狗党の乱は当然水戸藩と繋がっていると見るべきで、つまり一橋慶喜の別働隊であったと考えて良い。

勝手掛 松平宗秀

ここでもう一人、勝手掛老中となった丹後宮津藩主松平宗秀について見てみたい。元治元(1864)年8月18日に老中となった松平宗秀は、徳川綱吉の生母桂昌院の一族だということで、元禄年間に本庄氏として新たに大名となり、宝永2年になって松平性を与えられた家だった。大名になる前から牧野氏の分家である与板藩に養子を送り込んで当主としており、最初から牧野氏をピッタリマークしている家だった。その後の系譜にも多少引っかかるところがあるが、とにかく宗秀が当主となり、その息子を長岡藩牧野忠恭の養子に送り込み、実子を押し退けて嗣子となっていた。長岡は出羽方面への玄関となる場所であり、棚倉と長岡を押さえれば奥羽への道が開けることになる。そして慶応元(1865)年4月19日に牧野忠恭が勝手掛でもあった老中を辞任すると、松平宗秀が代わりに勝手掛となった。

フランスのゴリ押し

それに先立って、フランス人技術者のレオンス・ヴェルニーが1月に日本に派遣され、駐日公使レオン・ロッシュらと横須賀製鉄所の起立(建設)原案を作成し、4年間で製鉄所1ヶ所、艦船の修理所2ヶ所、造船所3ヶ所、武器庫および宿舎などを建設し、予算は総額240万ドルとされた計画を2月11日に提出したという。2月24日におそらく無役であった水野忠誠とジラールお気に入りで外国係であったかもしれない酒井忠毗が、約定書に連署して建設が正式に決まり、造兵廠建設に必要な物品の購入やフランス人技術者の手配が始まったという。これはおそらく勝手掛の許可どころか、老中の回覧も経ていなかったのではないかと思われる。このような巨額の予算が、なんの権限も持たない者の署名で勝手に動き出すという恐ろしいことが行われたのだ。なお、これに先立って2月1日には酒井忠績が大老に就任しており、老中主席の水野忠精と併せて担当の水野、酒井両名と同じ姓となる。署名が姓だけでなされたのならば、大老と老中主席の署名があるとしてこれを強行したのかもしれない。この頃、ちょうど将軍上洛問題で老中の阿部正外と松平宗秀は上洛しており、江戸における意思決定機能は空洞化していた。その上洛問題を理由として、上洛反対派の牧野ら老中三人が解任され、5月16日に家茂は上洛することになった。上洛問題は理由に過ぎず、支出の許可を下さない勝手掛牧野の排除を狙ったものだと思われる。そしてその解任を主導した側の松平宗秀が勝手掛に就任したのだ。

小栗の反撃

閏5月に中小坂鉄山に溶鉱炉を建設するための見分が武田斐三郎らによって実施されていることから、上位の役職から支えとなる人がいなくなっても、小栗は孤軍奮闘していた様子が窺われる。それからしばらくは力比べが続いたようで、老中からまともな人物が消えても半年以上も均衡が保たれたということは、幕府の実務部門はまだまだまともな人材によって動いていたのだと考えられる。それ以前に、実務的に240万両という多額の金を調達するのに、小栗のおさえていたであろう貨幣鋳造がなければ不可能であったということが大きいのかもしれない。実際、支払いは小栗二分判とも呼ばれた万延二分判でなされたとも言われる。もっとも小栗自身は、8月15日に承認されたパリ万博を機会に調達する外貨によって支払いをしようとしていたようであり、金の流出自体望んでいなかった可能性がある。おそらく、この小栗の抵抗が明治維新後に造幣局を大阪に持って行った大きな理由なのではないだろうか。

外国艦隊によるダメ押し

慶応元年9月13日(1865年11月1日)3カ国8隻からなる艦隊が横浜を出港し、9月16日(11月4日)には兵庫港に到着した。これは、兵庫の開港を求めての行動だとされるが、むしろ特にイギリスのパークスに対しては、薩英戦争の時の話を考えれれば、長州征伐の援軍という話で進められていた可能性がある。それが、結果として一橋慶喜による、兵庫開港の勅許、ひいては開国条約についての勅許が出ることで、攘夷の命令が朝廷からではなく幕府から出たのだ、ということを公式化し、それによって下関戦争の賠償金を幕府に出させるという計画を後押しすることになったのだといえそう。一橋慶喜の、この徹底した幕府売りの姿勢を理解しないと、彼の行動は全く説明がつかない。そして、その裏には明らかにフランスのロッシュがいた。

力に寄り切りられる孝明天皇

外国艦隊が兵庫までやってくると、状況は風雲急を告げる。9月23日に老中の阿部正外と松前崇広が四カ国公使と交渉を開始し、25日には無許可での開港を決めた。それに対して29日に両老中が解任された。一橋慶喜は無許可での開港の非を述べたという。10月に入ると、将軍家茂が将軍職を辞して江戸に帰ると言い始める。それは7日に撤回されたが、それは一橋慶喜が孝明天皇が条約の批准に同意したと、四カ国に対して回答した日でもあった。勅許自体5日に出たともされるが、開港前に孝明天皇が亡くなっていることを含め、ここで本当に勅許が出ていたのかは十分に疑うべき理由がある。慶応元年10月12日(1865年11月29日)、幕府から中小坂鉄山の領主である小幡藩主に対して、中小坂鉄山に溶鉱炉を建設するよう通達が出された。小幡藩主松平忠恕はかなりまともな感覚を持っていた殿様のようで、小栗は頼みの綱として忠恕に直接頼み、藩としての開発をお願いしたのではないだろうか。しかしながら、結局幕府による賠償金支払いが決まり、15日には横須賀造船所で鍬入れ式が行われて万事休した。その日のうちに、老中外国事務取扱の松平康英への宇都宮転封の取り消しと2万石の加増が決まり、そしてその翌日には康英は老中を辞任した。

巨額横領の完了

これによって、本来ならば高炉建設に使われるはずだった巨額の資金がフランスに流れることになり、その中から函館の開発費用や戸田氏の山陵整備費用も捻出されることになったのではないか。この巨額投資が幕府の財源を揺るがすことになり、それは明治維新を早めることになった。結局横須賀造船所は竣工前に明治維新となり、新政府に接収されることになった。
維新動乱に直接つながるようなこの時期の情報は、まだかなり流動的で、なにが正しい情報なのかは確定的ではなさそう。状況が落ち着いたら、もう少し整理できるようになるのかもしれない。

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