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インド滞在後の変化など |Some changes after visiting India

(2023年 夏)

初めてのインド滞在で瞑想の長めのコースを受けて戻ってきてからも、しばらく繊細な日々が続いていた。

昨年、越してきたばかりの熊野の古民家で静かに過ごした。山に囲まれ澄んだ川が流れている。人と話すとすぐに疲れてしまうので、ほとんど家で過ごした。本を読み、瞑想をし、疲れたら横になった。庭には出発前に植えた夏野菜や薬味(大葉やエゴマやパクチー)がなっており、一度スーパーに行くと2週間ほどは外出しなくても食べ物に困らないこの環境はとてもありがたかった。ベーグルやスコーンやパンケーキを焼き、朝食に食べた。整った生活をしずかにはじめた。

最近の変化は、卵アレルギーをはっきり実感して、卵をやめようと思ったことと、突然コーヒーが飲めなくなったこと。アレルギーの検査をしたときに卵アレルギーであることは出ていたのだけれど、気づかないふりをして食べていた。顔全体がかゆくなっていることに以前よりも気づくようになった。

それから、コーヒーは習慣のようなものだった。アメリカに住んでいた時、安くて新鮮な豆屋さんがあり、毎朝ペーパードリップで淹れて飲むのが習慣だった。その習慣が日本に戻ってからも続いたどころか、昨今のコーヒーブームで色々な種類のコーヒー豆やグッズが手に入るようになり、まんまとハマってしまっていた。それが今回のインド滞在でコーヒーの味そのものに魅力を全く感じなくなっていた。飲みたいと意欲が特に湧かないが、棚にある余ったコーヒーを少し飲むと心臓がどくどくと波打つ。カフェインに適応できない身体にさえなってしまったようだった。一ヶ月以上コーヒーを飲んでいなかったからなのか、瞑想の効果なのかは判断がつかなかった。瞑想の効果として中毒がなくなるというのはよく聞く話である。中毒を引き起こす、何かを次々に欲しがる物質が身体から消えたのかもしれない。

帰国して数週間、心がまだ繊細で少ししたことで痛みを感じる。「心」も「痛み」も抽象的な言葉である。そんな言葉で言い表すことができるのかもわからないけど、家にいるだけなのに身体がひどくだるい。昔の戦隊系のアニメで人間がロボットに変身する時みたいに、皮膚から重くとがったものがでてきそうな感じがする。「生きることは苦である」というのはブッダの言葉である。この「苦」という言葉の意味するところをわたしたちは正しく受けとっているのだろうか。

個人的には、生きている限り身体に感じ続ける感覚そのもののことを「苦」と呼んでいるような気がする。普段使う日本語の「苦」という言葉には、いたい・つらい等のネガティブな意味で使われるけど、仏教の文脈における「苦」は心地よさも悪さも違いはないとのことだ。ただ身体に感じる強烈な生。これがどうしようもなく「苦」であるように思った。

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