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冬うつの季節

私と希●念慮のつきあいは長い。チャーチルの「黒い犬」のような、厄介で腐れ縁の幼なじみ。普段見えないけど、ずっと傍にいる。

すでに幼稚園の年長で「ここではないどこか」に還りたくてたまらず、小学校の中頃には「自分がいないほうが周りは幸せなんじゃないか」と思うようになり、中学校の頃には「(自分を)社会的に抹殺しなければならない。どうせ死んだって誰も葬式で泣かない」と思い込み、登下校ごとに橋の上から水のない川をのぞき込んでいた。この頃、おそらく躁うつの初発エピソードがあり、通学電車で呆けて折り返し2往復したことがある。高校では多少気の合う人もいたけれど、「なぜ私はまだ死なない?紛争地にでも産まれたらよかった」と、キラキラしている体育会系の生徒たちを見ながら、放課後をぼんやり過ごしていた。

なぜこんなことになったのか。話題があまり同年代とあわなかったり、空気を読み損なったり、私の性格がひねくれていたのもある。あとは母親がだいぶ変わった人で、ネグレクトかつ教育過干渉のエリート主義、日々彼女の癇癪に振り回された。幼少期から生家の差し押えや父の死、大地震などで、日常が崩れ落ちる感覚が拭えなかったのも良くなかったかもしれない。

それでもどうにか20歳を超えたけど、受験に合格しようが、彼氏ができようが、黒いものは消えてはくれない。友達がいてもそんな話はしない。唯一、多少なり勉強だけはできたのが救いだった。 できなかったら家でどう扱われるか分からない恐怖心もあったけど。

大学2年の初夏、プッツリ糸が切れた。受験指導の講師バイトの激務、何でもない休み時間の同級生の陰口(そんな気がしただけ)、あと給付奨学金の圧迫面接の失敗もろもろ。布団から起き上がれなくなって前期の定期試験をすべて欠席。教員から言われて、初めて精神科を受診。そこからは引きこもりと、這うように家を出て授業やバイトに行く生活のくり返し。頭のなかにこだます「●ねばいいのに」という言葉。

正直なところ、それらをやり過ごしながら学部と修士を出るのは結構しんどかった。それでも10年、20年先に細ーーい糸をつなげるつもりで生き延びた。

30歳手前でようやく社会にでても、契約や派遣、嘱託で働いては失敗してのくり返し。結婚しても、子どもができても、黒い幼なじみは定期的にあらわれる。

冬至を前に、今年もまたろくなことを考えない。

5年くらい前、富士五湖のほとりで酒で抗うつ薬をがぶ飲みした折に多少気が済んだのと(致死量を計算した上、最後の情けで量を割り引いた)、数年前の一人目の出産直前、最終的にどんな形であれ、いつかこの世からいなくなるのだからと積極的に何かするのは諦めた。

どんなクソ親でも、親がいなくなる不安と恐怖は身にしみているので、子をもつのは私にとってアンカーなのかもしれない。でも日々子どもと笑っていても、頭の片方では生きていることを残念に思う自分もいる。

もうすぐその碇が増える。幸か不幸か、しばらくは死ねない。

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